サンケイ時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「サンケイ時代」の解説
1965年 4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ(Sankei Swallows)に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位指名の河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否 している。 1966年 1月7日、少年野球ファン開拓のため という理由に加え、フジテレビで鉄腕アトムが放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ(Sankei Atoms)に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。 1967年 58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。武上四郎が新人王を獲得。 1968年 1月28日、神奈川県横須賀市に武山球場が完成、二軍本拠地となる。5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーブ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。
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