ゴットルプ家の動向とデンマーク王家による再統合
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「大北方戦争」も参照 デンマーク王家(オルテンブルク家)もシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公家(ゴットルプ家)も、姻戚関係によってスカンジナビア諸国の王侯家と複雑に結びついており、同時にスカンジナビア諸国の争いの中に立つこととなった。ゴットルプ家は親スウェーデンの立場を強め、フレゼリク3世は、北方戦争(1655年 - 1661年)でデンマークと戦うスウェーデン軍の自領通過を許可。その子のクリスチャン・アルブレクトは、北方戦争後に巻き返したデンマーク王によって領土を追放されるなどの対立が続いた。シュレースヴィヒ・ホルシュタインの領域はしばしば戦場となり、荒廃した。 大北方戦争(1700年 - 1721年)は、デンマーク王フレデリク4世が、スウェーデンの同盟国であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国に侵攻することで始まった。フレデリク4世はスウェーデンの反撃を受け、トラヴェンタール条約でシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国の主権を確認させられ、戦争から脱落した。その後再び参戦したデンマークは、1713年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国のうちシュレースヴィヒ地方に属する領域を占領(占領された地域の中には、ゴットルプ家の居館であるゴットルフ城も含まれていた)、宗主としての権限を行使しゴットルプ公カール・フリードリヒから共同統治者の地位を剥奪した。1720年のフレデリクスボー条約で、カール・フリードリヒはこれを受け入れることを余儀なくされる。 一方で、神聖ローマ帝国内のホルシュタイン公国では、王家とゴットルプ家が共同統治するという形式が継続した。カール・フリードリヒは、ホルシュタイン地方に残された自領をホルシュタイン=ゴットルプ公国とし、首都をキールに定めた。 1739年、カール・フリードリヒの子カール・ペーター・ウルリヒが幼くして公位を継ぐが、母方の叔母であるロシア女帝エリザヴェータから後継者として指名される。カール・ペーター・ウルリヒはのちにロシア皇帝として即位しピョートル3世となる。1773年、ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子であるホルシュタイン=ゴットルプ公パーヴェル・ペトロヴィチ(後のロシア皇帝パーヴェル1世)は、ホルシュタイン=ゴットルプ公国をデンマークに譲り、その代わりにオルデンブルク公国を獲得した。これによって、ホルシュタイン公国でも共同統治が解消され、オルテンブルク家による単独統治となった。 1806年に神聖ローマ帝国が解散すると、ホルシュタイン公国は主権を手にした。
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