コンサドーレ札幌監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:40 UTC 版)
1999年にJ2降格となったコンサドーレ札幌の監督に就任。自身初となるJリーグの監督として、さらに前年にワールドカップ日本代表を率いていたこともあり報道も多く、注目度・期待度が高かったが、就任1年目はJ1昇格争いには加われずJ2リーグ5位に終わった。シーズン終了後、札幌監督就任から続いた采配時のスーツ着用をやめてジャージ着用に変え、自身の発想も転換した以外にも、チームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行った。 2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、2位の浦和レッズに勝点12差をつけてJ2優勝・2年での1部復帰を果たす。チームとしてもJ2発足後初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位(1stステージ:8位(勝ち点21、6勝3分6敗)、2ndステージ:14位(勝ち点13、4勝2分9敗))の成績を収めてJ1残留に成功。ここを区切りに札幌の監督を辞任し、解説者の視点から世界のサッカーを見つめなおすこととなる。札幌を指揮した期間ではエメルソンや播戸竜二、山瀬功治、今野泰幸など若い才能を発掘・起用した。さらにこの年、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。 2002年はサッカー解説者として活動。FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂された。
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