コメディ・フランセーズ時代
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「サラ・ベルナール」の記事における「コメディ・フランセーズ時代」の解説
1859年にパリのコンセルヴァトワール演劇高等科で、サラはド・モルニー公の薦めでジャン=バティスト・プロヴォ(フランス語版)のクラスに入った。1862年に喜劇で2番目の成績をとってそこを卒業し、コメディ・フランセーズに入座した。しかし、1866年に正座員のマドモワゼル・ナタリーに平手打ちを食らわしてしまい、追い出された。ケンカの原因は、ナタリーのドレスのすそ(裳)を踏んづけて歩いていたサラの妹をナタリーが乱暴に押しのけたことだった。サラはオデオン座と契約を結び、1869年にフランソワ・コッペ(フランス語版)の「ル・パッサン」を演じて本領を発揮した。普仏戦争におけるパリ包囲のさなか、1870年に、サラは劇場を野戦病院に造りかえた。そこで、のちのフォッシュ将軍の手当をした。彼とはさらに45年後、マルヌの塹壕で出会うことになる。1872年には「リュイ・ブラス」の女王の役を勝ち取り、さらに戯曲の作者であるヴィクトル・ユゴーから「黄金の声」なるあだ名を頂戴する。この成功によりサラはコメディ・フランセーズに呼び戻された。1874年にラシーヌの「フェードル」、1877年にユゴーの「エルナニ」を演じた。 この時期の成功は、サラが地位を得るために、また、支出を賄うために、「彼女の母親のように」その魅力を用いたのではないかと警察が疑うほどだった。いずれにせよ、サラが成功を収めるにつれ、彼女を賛美する形容辞の数も次々と増えて行った。たとえば、「神聖なるサラ」、「劇場の女帝」といった具合である。
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