コソボ紛争とプリズレン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 14:24 UTC 版)
「プリズレン」の記事における「コソボ紛争とプリズレン」の解説
プリズレン市街は1998年から1999年にかけてのコソボ紛争の大きな被害を受けることは無かったものの、プリズレン自治体の他の地域では相当の影響があった。紛争前には 欧州安全保障協力機構によればこれら自治体の人口はアルバニア系住民78%、セルビア系住民5%、その他17%という民族構成であった。紛争の間、ほとんどのアルバニア系住民は強制もしくは恐怖からプリズレン市街から避難した。 紛争が終わった1999年6月に、ほとんどのアルバニア系住民が戻ってきた。セルビア系住民とロマの少数派民族は危険を感じて逃亡し、OSCEによれば 10月までに97%のセルビア系住民と、60%のロマがプリズレンを去った。こうして、アルバニア系が主流となったが、一方トルコ系やアッシュカリー(アルバニア・ロマを自称する少数民族)の少数民族とボシュニャク人(トルベシュ=マケドニア系ムスリムを含む)も相当の人口が市街またはその周辺村落、スクレスカやマムサを含むこれらゴラ地域などに居住している。 コソボ紛争とその余波、NATOが行ったプリズレン周辺の軍や保安部隊拠点への限定的爆撃は、ある程度の損害を与えることになった。セルビア軍はプリズレンにあるアルバニア人の重要な文化遺産であるプリズレン連盟の建物を破壊した。アルバニア人に対する宗教的侮辱として、モスクを破壊するなどの行為にも組織的に行われた。一方で2004年3月17日、2004年の反セルビア人暴動の最中において、セルビア人文化遺産、1307年に建てられたセルビア正教会のリェヴィシャの生神女教会への破壊行為、救世主教会、聖ゲオルギイ教会(市内最大の教会建造物)、ランジェヴァックの聖ゲオルギウス聖堂、ミラのニコラオス聖堂、聖大天使修道院などプリズレンの礼拝所、地方教会関係者の住居はすべてアルバニア系群集の復讐による破壊を蒙った。
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