ケニア植民地の成立以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 08:25 UTC 版)
「イギリス領東アフリカ」の記事における「ケニア植民地の成立以降」の解説
第一次世界大戦のアフリカ戦線の戦いを経て、1920年には保護領から本国直轄のケニア植民地(英語版)となった。中央州一帯には「白人高地」として白人経営によるコーヒーや茶の農園が広がり、1930年代には白人の数は3万人に達した。後に、高原の土地を占有する白人農園は、元来の土地所有権を主張するキクユ族によるマウマウ団の乱などさまざまな民族主義運動の標的と化す。 一方1896年以来、金融、商業、手工業などを行うインドの移民がケニアに到来し都市部の経済を動かした。さらにウガンダ鉄道建設のために大勢のインド人がケニアとウガンダに渡ってきた。人種別の隔離がなされ、都市での居住地制限や高原地帯へのインド人入植制限が行われたが、インド人は数で白人を圧倒した。1921年段階でのケニアの推定人口は2,376,000人で、うち9651人はヨーロッパ人、22,822人はインド人、10,102人はアラブ人だった。最大都市はモンバサで人口は32,000人だった。
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