グレゴール・シュトラッサー失脚をめぐって
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「グレゴール・シュトラッサー失脚をめぐって」の解説
しかしヒトラーは妥協せず、パーペンからの副首相就任要請を拒否し、首相職を要求し続けた。シュライヒャーはパーペンを見限り、彼を辞職に追い込むと12月2日に代わって首相に就任した。 シュライヒャー新首相は、12月3日にもナチ党ナンバーツーであるグレゴール・シュトラッサー(彼はナチ党の財政崩壊状態と党勢停滞から今すぐ入閣して総選挙を防がなければ党が滅びると考えていた)と秘密裏に会見し、彼に副首相兼プロイセン首相ポストを持ち掛けた。そして12月5日にヒトラーがベルリンのホテル・カイザーホーフで招集した党幹部会議においてシュトラッサーは今こそ党はシュライヒャー内閣に参加すべきであり、自分ではなくヒトラーが副首相に就任すべきであるとヒトラーに進言したが、ヒトラーはゲッベルスとゲーリングの反対の同意を得てシュトラッサーが独断で秘密会談を行ったことを「党内分裂行動」と批判し、シュトラッサーは12月8日にも党役職辞任に追いやられた。シュトラッサーの指揮する組織全国指導部は解体され、その役割の一部はゲッベルスの宣伝全国指導部に分配された。 しかしこの事件の経緯には謎が多く、ヒトラーは一貫して非妥協路線を貫いてシュトラッサーを非難したとする説もある一方で、一説によればヒトラーは選挙惨敗続きで弱気になっており、初めシュトラッサーの入閣を追認しかけたが(自分自身は首相以外は受けないという非妥協路線を貫きながら、シュトラッサーを入閣させれば、屈服したというイメージを避けつつ政府に党への便宜を図らせることができると考えていた)、その案にゲッベルスとゲーリングが強く反対し、二人でヒトラーを説得して彼を非妥協路線に戻したとも言われる。 ナチス左派の同志という意味ではゲッベルスとシュトラッサーは9年前に分かれていた。ゲッベルスがベルリン大管区指導者になってからは二人はベルリンにおけるナチス系新聞の縄張りを争う一種のライバル関係になっていた。ただその対立が表面化するには至らず、ゲッベルスとシュトラッサーがひどく対立したようなことを証明する物は何もない。ゲッベルスはシュトラッサーの失脚について「シュトラッサー派が時々刻々、地盤を失いつつある」、「彼の遺産は分割された」と淡々とした調子で書いている。
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