グラフトン公爵内閣の閣僚
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「フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)」の記事における「グラフトン公爵内閣の閣僚」の解説
「グラフトン公爵内閣」も参照 1767年3月に財務大臣就任をチャタム伯爵とグラフトン公爵から打診されたが辞退し、同年9月4日に財務大臣チャールズ・タウンゼンドが死去すると9月9日に再びグラフトン公爵から就任打診を受けるも再度辞退した。2度目の辞退では父の病気を理由としたが、父と相談したのち9月10日に就任を決意した。歴史学者P・D・G・トマス(英語版)によると、タウンゼンドとジョージ・グレンヴィルは1767年9月までにノースの首相就任を予想したという。1768年1月にベッドフォード派(英語版)の入閣によりヘンリー・シーモア・コンウェイが庶民院院内総務の座を退くと、ノース卿がその後任となった。 ジョン・ウィルクスの庶民院議員当選をめぐり、国王ジョージ3世と庶民院多数派の支持を受けて1769年2月17日にウィルクスの議会追放を、同年4月15日に対立候補ヘンリー・ラットレル(英語版)の当選を可決させた。この論争においてはウィルクスの当選無効と補欠選挙での当選が繰り返されたが、採決の度に与党側の得票数が減っていたことにノース卿が落胆して、一時辞任を考えるほどになった。ジョージ3世はノース卿を称えて彼を慰留したが、この「ノース卿が辞任を求め、ジョージ3世が慰留する」というシーンは以降何度も繰り返されたという。 1769年3月にノース卿が自身の政治経歴を回顧したとき、人気取りの政策に支持したことはなかったと主張し、その例として1763年サイダー税法案(英語版)と1765年印紙法への支持、ウィルクスと1769年ヌルム・テンプス法(Nullum Tempus Act 1769、「時効も場所的限定も国王には適用なし(英語版)」の原則の適用を限定する法)への反対を挙げた。また1769年5月にはタウンゼンド諸法における茶への課税の維持を支持、閣議で可決させた。この決定は庶民院でも1770年3月5日に賛成204票・反対142票で可決されたが、英国人名事典ではこれにより対米戦争が不可避になったとしている。 すこぶる不人気だった内閣がジュニアス(英語版)からの攻撃などを受けて、1770年1月にグラフトン公爵が辞任すると、ノース卿は組閣の大命を受けて1770年3月に首相に就任、以降12年間首相を務めた。
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