グラフトン・テラスへ引っ越し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)
「カール・マルクス」の記事における「グラフトン・テラスへ引っ越し」の解説
1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった。 マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ベルサイズ・パーク(英語版)グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている。 引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」。 終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している。 特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の出札係に応募したがひどい悪筆のため断られ生活苦は続いた。
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