クリンチ・マウンテン・ボーイズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 10:17 UTC 版)
「ラルフ・スタンレー」の記事における「クリンチ・マウンテン・ボーイズ」の解説
1946年、彼は兄でギタリストのカーター・スタンレーと共に、クリンチ・マウンテン・ボーイズを結成。"Primitive Baptist Universalist"教会の独特な短調の歌唱法など、その土地での伝統的な音楽や、カーター・ファミリーのような素朴で家庭的なハーモニーににウェイトを置き、地元のラジオ局での活動を始めた。初めに、ノートン (バージニア州)のWNVAで活動を始めたが、あまり長くはいなかった。その後はブリストル (バージニア州)にうつり、WCYBで"Farm and Fun Time"といった番組を始め、12年の間、しばしば出演をしていた。 初めはビル・モンローの楽曲を多くカバーしていた。ビル・モンローはブルーグラスという形態の音楽を作り出したアーティストである。彼らはすぐに「今のままじゃ上手く行かねぇって、事に気づいた。だから。俺たちは1948年、1949年と歌を作ったのさ。俺は20曲くらい歌とバンジョーチューンを作ったけど、兄貴の方が俺より曲を作るのは上手かったな。」コロムビア・レコードがスタンレー・ブラザーズと契約した時、ビル・モンローは抗議して、レコードを抜けデッカ・レコードと契約した。その後、カーターは再び"ブルーグラスの父"であるビル・モンローの歌を歌った。 ラルフはモンローの心境の変化について、「モンローは兄貴が良い歌手になるって分かってたんだな。モンローは俺たちの音楽が好きだった。俺たちの歌が好きだったんだよ」と語っている。 スタンレー・ブラザーズは、1950年代の終わりにキング・レコードに入った。同時期にジェームス・ブラウンもレコードに加入。実際のところ、ジェームス・ブラウンとスタンレー・ブラザーズはスタンレーが"Finger Poppin' Time"をレコーディングしている時、同じスタジオにいた。ラルフ曰く、「俺たちは一緒にフィンガーをポッピンさせてたのさ」、ということである。キング・レコードにおいて、彼らの音楽は今日知られているスタンレー・スタイルにより近づいて行った。 ラルフとカーターは彼ら兄弟とバンドのメンバーで、"Clinch Mountain Boys"として1946年から1966年まで活動を行った。ラルフは、カーターが他界する1967年以後、ソロになってからもバンドの名前を残し続けた。
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