クィーンストン・ハイツでの戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:17 UTC 版)
「アイザック・ブロック」の記事における「クィーンストン・ハイツでの戦死」の解説
一方、連邦党員であまり軍歴も無いままに政治的に指名されたアメリカ軍将軍スティーブン・ヴァン・レンセリアが、ニューヨーク州ルイストン近くに大軍を率いて現れた。ヴァン・レンセリアは大統領からの圧力も受けていた。ヴァン・レンセリアはその軍隊の質に関しては大きな危惧を抱いていたが、攻撃する以外の選択肢は無かった。事態をさらに悪くしたことに、ヴァン・レンセリアは軍隊経験が無いために、正規軍の大多数から信用されていなかった。1812年10月13日の早朝、アメリカ軍はナイアガラ川を越えてクィーンストン・ハイツの戦いに突入した。イギリス軍からの激しい砲撃をものともせず、第一派のジョン・E・ウール大尉指揮する部隊は川の向こう岸に上がり、漁師道を通って丘の上に向かった。続いてイギリス軍砲兵隊を攻撃し潰した。 近くにあったジョージ砦にいたブロックは丘にいる小さな部隊を指揮するために急行した。大砲が使えなくなり、アメリカ軍の残りの部隊も川を越えてくることを恐れたブロックは、丘の上からの直接攻撃を命じた。率先垂範しなければ命令するに値しないというブロックの個人的な哲学そのままに、ブロック自ら攻撃隊の先頭にたった。この攻撃は成功したかに見えたが、そこで反撃を食らった。ブロックは手を撃たれたが、さらに第二次攻撃も指揮した。ブロックの将軍服は明白な目標になっていたので、この時にアメリカ軍狙撃兵に撃たれて戦死した。狙撃兵の一人はブロックの音信不通になっていた兄弟でマッケンジー・ブロックといい、アメリカに寝返った後アメリカ市民となっていた。マッケンジーが子供の時に、アイザック・ブロックに屋根から落とされてあやうく死にかけたことがあった。ブロックの最後の言葉はsurgite(ラテン語で立ち上がる、あるいは続行するの意)、あるいは「続けよ、勇敢なヨークの雄志よ」、あるいは「私の死に注意を向けてはならない、それは勇敢な仲間が勝利を得ることを妨げる」と様々に伝えられている。しかし、ブロックは即死とも伝えられており、これらの証言に確としたものはない。 ブロックの死の後で、シェフが戦場に到着しイギリス軍の指揮を執った。直接攻撃を行った前任者とは対照的にシェフはより注意深い態度を選んだ。このことが最終的には成功し、アメリカ軍に対する勝利に繋がった。イギリス軍の損失は50名程度であった。この戦闘中第49連隊は「将軍の仕返し」を鬨の声につかったという。マッケンジー・ブロックが捕虜になったとき、水に漬けられて裏切りの懺悔をやらされた。
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