キリスト像の変容とマリア崇敬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 08:39 UTC 版)
「民間信仰」の記事における「キリスト像の変容とマリア崇敬」の解説
キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。 まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであった。 聖母についての数々の崇敬もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後、天に上げられたという「聖母の被昇天」、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」。これらは、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として崇敬を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の崇敬は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている。
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