ガウスとの文通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 14:20 UTC 版)
「ソフィ・ジェルマン」の記事における「ガウスとの文通」の解説
ガウスの記念碑的著作 Disquisitiones Arithmeticae を読むと、再び数論へ興味を持った。3年間演習をしたり、いくつかの定理に自分自身の証明を与えたりした後、ルブランという偽名を用いて1歳年下の著者であるガウスへ手紙を出した。初めの手紙は1804年11月21日に出され、前述のガウスの著作について議論し、フェルマーの最終定理についてのいくつかの研究結果を示した。この手紙の中でn が p – 1 (p は p = 8k + 7 という形の素数) のときの場合は証明したと主張している。しかし、その証明には弱い仮定があり、ガウスはその証明については返事の中で言及していない。 1807年頃(ソースは異なる)、ナポレオン戦争の間、フランス軍はドイツの都市ブラウンシュヴァイクを占領しており、そこにガウスは住んでいた。ジェルマンはアルキメデスと同じ運命になることを心配し、家族の友人であったペルネティ将軍に対し、ガウスの安全の確保を懇願する内容の手紙を書いた。ペルネティ将軍は大隊の長を派遣し、個人的にガウスと会い彼の安全を確認した。ガウスが無事であることが分かったのはいいが、ガウスはソフィーという名前を言われたことに混乱していた。 その出来事から3か月後、ジェルマンは自分の本当の正体についてガウスに明かした。ガウスはこのように返答した。 私の尊敬する文通相手のルブランがこのように祝福すべき人に変容するのを見たとき、この驚きと称賛をどう表現したらいいだろうか。・・・その性・習慣・偏見により数論の難問をよく理解する上では、男性よりもずっと多くの障害に直面するだろう。しかしこれらの足かせに打ち勝ち、最も隠されたものを理解したとき、その女性は疑いなく崇高な勇気、並外れた才能、優れた天賦の才を持つといえる。 ガウスはオルバースにあてた手紙の中で、ジェルマンは誠実な人物と評している。1807年の同じ手紙の中で、もし xn + yn が h2 + nf2 という形であれば、x + y もその形になると主張した。ガウスは反例 1511 + 811 は h2 + 11f2 という形に書けるが、15 + 8 は書けないを以て返答している。 ガウスはジェルマンを良く考えていたものの、彼女への返事はよく遅れ、彼女の研究を論評することはふつうなかった。最終的には、ガウスの興味が数論から離れ、1809年手紙の往来は止まった。このような交友関係にも関わらず、2人は実際に会うことはなかった。
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