カール・ラーションの妻として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 09:07 UTC 版)
「カーリン・ラーション」の記事における「カール・ラーションの妻として」の解説
スウェーデン中部、ネルケ地方のエレブルーの成功したビジネスマンの家に生まれ、早くから絵の才能を示した。ストックホルムの学校で学び、手工芸学校で学んだ後、1877年から1882年の間、スウェーデン王立美術院で学んだ。カーリン・ベーリェーは、後に夫となるカール・ラーションと1879年のスウェーデンで初めて出会った。1882年9月、二人はパリ郊外の村グレー=シュル=ロワンにおいて婚約。翌年6月にストックホルムで結婚し、間もなくグレー村に戻った。長女スザンヌはグレー村で生まれた。1885年には一家でストックホルムへ戻り、翌年、ヴァーランド美術学校の教師となった夫とともにイェーテボリに移り住み、そこで長男ウルフが生まれた。1888年には、夫がポントゥス・フュシュテンベリーから壁画制作を依頼されたためパリに滞在することになると、小さな子供達をハルスベリ在住の自分の両親に預け、夫に同行した。パリでは次男ポントゥスが生まれた。1889年に夫妻がハルスベリに戻って子供たちと再会したとき、ウルフは喜びつつも父を「おじさん」と呼んだという。1891年に次女リスベス、1893年に三女ブリータ、1896年に四女チェシュティが生まれる。三男エースビョーンが生まれた翌年、1901年から、一家はファールン市の村スンドボーンに定住するようになる。スンドボーンにはカーリンとカールが1888年にカーリンの父アードルフ・ベーリェー(Adolf Bergöö)から譲り受けた家があり、それまでは一時的にその家で過ごしていた。カーリンとカールの夫妻はその家リッラ・ヒュットネースで7人の子を育てた。
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