カールスルーエ大学時代
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「フリッツ・ハーバー」の記事における「カールスルーエ大学時代」の解説
フリッツが所属したカールスルーエ大学の化学工学部には、ハンス・ブンテとカール・エングラーという、2人の主任教授がいた。フリッツはブンテに師事したが、エングラーとも石油の研究などで関わった。フリッツは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した。 さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時フリッツはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された。そして同年に助教授となった。1901年には、かつて兵役期間中に知り合ったユダヤ人化学者のクララと学会で再会し、同年に結婚した。翌年には長男のヘルマンが誕生している。 1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した(後述)。これは1912年に化学メーカーのBASF社で実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年にカールスルーエ大学教授となった。 アンモニア合成の成功により、フリッツの知名度は著しく上昇した。フリッツの元には国内外から多くの学生が集まり、フリッツを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった。そして1912年、フリッツは新たに作られたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した。
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