カルビー改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 13:03 UTC 版)
2005年松尾雅彦は社長退任後ビクトリア島のホテルに滞在、帰国後40度を超える熱をだして死線をさまよい、闘病は3ヶ月に及んだ。体調回復した後、カルビーの戦略を変える時期だと思い始めた。2006年相談役就任。 カルビーは創業当初から同族経営が続き、父・孝が死去し松尾雅彦が社長を退任した後も松尾家(聰・康二・雅彦の3兄弟)は取締役として経営に関わっていた。またカルビーは当初から非上場企業であった。カルビーでは1980年代から国内シリアル市場を巡って海外企業との間で競争、そして提携の話が挙がっては消えており、父・孝は「会社を上場させないと駄目になる」と言っていたという。ただ松尾雅彦は他社に飲み込まれず松尾家で経営を続けれられないか考えていた。そこへ2005年松尾雅彦は社長退任した後に闘病によりカルビーから一歩離れたことで考えを改め、同族経営をやめ、株式上場を目指し、外資との提携、経営者の外部招集を考え始めた。この際に社外取締役として松尾雅彦がカルビーに招いたのが松本晃である。 2009年カルビーはペプシコと業務・資本提携を締結、ペプシコがカルビーの発行済み株式を20%取得し、これに伴い創業者一族の松尾家は経営から退くことになった。なお会長兼CEOには松本が、社長(五代目)兼COOに生え抜きの伊藤秀二が就任し、東証一部上場も2011年に達成している。 このことは大企業の同族経営脱却と経営者の外部招聘の好例として紹介されている。2009年から役員待遇のない相談役としてカルビーに席をおいている。
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