カザフの調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:45 UTC 版)
「チョカン・ワリハーノフ」の記事における「カザフの調査」の解説
1855年以後、ワリハーノフはカザフ草原東部、キルギスタン東部、カシュガルに、軍務と学術調査を兼ねた旅行を数度行う。1854年にワリハーノフはガスフォルト将軍の副官に任ぜられ、翌1855年にガスフォルトが実施した中央アジア探検に参加する。中央カザフ、セミレチエ、タルバガタイを調査し、カザフの統計、慣習法、古宗教の資料を収集した。 1856年にホメントフスキーの調査隊に参加し、イッシク・クル湖近辺で遊牧生活を営むキルギスのブグ族の視察、イッシク・クル湖沿岸部の測量に従事する。同年5月から約2か月間キルギスの間に留まり、彼らの伝承と叙情詩を記録した。7月半ばにロシア政府によってヴェールヌイ要塞(現在のアルマトイ)に召還され、清との交渉役に任ぜられる。ロシア政府の使節としてイリに派遣されたワリハーノフはロシアと清の通商関係を調整し、タルバガタイ条約締結の基盤を固めた。ワリハーノフは約3か月間クルジャに滞在した後、晩秋にオムスクに帰還する。 この旅行の中でワリハーノフは中央アジアの民族、特にキルギス(カラ・キルギス)の歴史・言語・地理に関心を抱き、多くの資料を収集する。 1857年、ワリハーノフはロシア政府の使節としてイッシク・クル湖近辺に居住するキルギスのブグ族の元に派遣される。この旅行でワリハーノフはキルギスの文化をより深く学ぶことができ、またキルギスの英雄叙事詩『マナス』を採取し、『マナス』のロシア語訳に取り掛かった。同年2月にピョートル・セミョーノフ=チャン=シャンスキー(英語版)らの推薦によって帝立ロシア地理学協会正会員に選出される。
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