カエサルの下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:58 UTC 版)
「クィントゥス・フフィウス・カレヌス」の記事における「カエサルの下で」の解説
紀元前51年、カレヌスはガリア征服を進めていたカエサルの下でレガトゥス(副司令官)を務めることとなった。ここでカレヌスはウクセロドゥヌムの包囲戦に参加した。紀元前49年にカエサルとポンペイウスの間に内戦が開始されたときも、カレヌスはカエサル側にいた。3月10日にはフォルミア近くのキケロの別荘を訪ね、ポンペイウスが戦争を開始し、元老院が「浅慮と愚かさ」示したことを非難している。その後マッシリア包囲戦とヒスパニア遠征にも加わった。 紀元前49年末、カレヌスはカエサルと共に、ブルンディシウムからイピロスに渡った。その直後にカレヌスは残りの兵を渡海させるためにイタリアに向かったが、マルクス・カルプルニウス・ビブルスが指揮するポンペイウス派の艦隊に襲われ、30隻が拿捕され、乗員もろとも焼かれてしまった。ポンペイウス側がバルカン半島の港を占領していたので、カレヌスはカエサルに援軍を送る計画を諦めざるを得なかった。翌年1月になって、カレヌスはマルクス・アントニウスと合流し、残りの兵をバルカン半島に移動させることができた。 カエサルはカレヌスをバルカン半島南部に派遣した。デルポイ、テーバイ、オルコメノスは無抵抗で降伏し、アテナイとメガラも長い間抵抗したが、降伏を余儀なくされた。ファルサルスの戦いでの敗北後、ポンペイウス側はペロポネソス半島への足がかりを得ようとしたが、カレヌスはこれを阻止し、パトラス占領でギリシアの征服を終えた。その後カレヌスはこの地を支配し、定期的にエジプトで戦うカエサルに援軍を送った。この間に、オリンピアとオロポスの聖域に、ギリシア人の手によってカレヌスの彫像が建てられている。ローマに戻ったカレヌスは、カエサルから紀元前47年の残りの期間(おそらく3ヶ月)の執政官に任命された。レガトゥスの一人であったプブリウス・ウァティニウスも同時に執政官に任命されている。
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