オペレッタ『猫と鼠』
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「ヨハン・シュトラウス3世」の記事における「オペレッタ『猫と鼠』」の解説
1898年の初め、ヨハン3世は三幕のオペレッタ『猫と鼠』の作曲に取りかかった。オペレッタの台本に強い印象を持った伯父ヨハン2世は、弟エドゥアルトに宛ててこう書いた。「台本は優れていると思う。私も何年もの間、良い台本を探していたのだが、駄目だった。ヨハン3世は私よりも運に恵まれている。彼のまさしく最初の(たぶん最後の)オペレッタは大成功だよ。」 1898年12月23日、『猫と鼠』はアン・デア・ウィーン劇場で初演された。演出・配役・台本いずれも大好評だったが、作曲家の貢献度についての評価はさまざまであった。地味ながらも楽しい旋律が詰まっていることは認められたが、特に『ノイエ・フライエ・プレッセ』の音楽批評家は、次のように不満を述べた。 筋はもっと早く進めることが必要だ。長ったらしい歌があれやこれや、しょっちゅう出てきて、いつも中断され、いっこうにはかどらない。……作曲者は親の七光りを背負っているのだから、デビュー前に、もっとしっかり自覚を持たなければならないとか、客席ではいろいろきびしい声が聞かれた。この名前で売る商品は、羊頭狗肉であってはならないのだとも。もしシュトラウス氏が、血迷って、自分には大変な才能があると思い込んでいるとしても、まずは偽名でつつましやかに登場したほうが奥ゆかしくはなかったか。彼が本当に世に認められるか見極めをつけるためにも……。 ヨハン3世自身もこうした批判があることは知っており、1899年1月6日に友人にこう手紙を書いている。「とにもかくにも14回の公演が持てたのは、ひとえにすぐれた制作のおかげと感謝するしかありません。」オペレッタの劇中に登場した旋律から作品9までが生み出され、初演と同時にピアノ譜やオーケストラ譜が出版された。 1899年、ヨハン3世は文部省を退職して音楽に専念することにした。しかし、デビューしてからわずか半年後の同年6月3日に伯父ヨハン2世が死去し、ヨハン3世は「ワルツ王」という最大の後ろ盾を失ってしまった。1901年には父エドゥアルトも引退を表明する。
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