オペレッタの作曲に至る経緯
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「こうもり (オペレッタ)」の記事における「オペレッタの作曲に至る経緯」の解説
『こうもり』が誕生するきっかけとなった人物は2人いる。当時パリで大成功を収め、「シャンゼリゼのモーツァルト」とよばれていたジャック・オッフェンバックと、シュトラウスの最初の妻イェッティである。オッフェンバックは1865年、ウィーンに自作の『美しきエレーヌ』を持ち込んできた。同作はウィーンで大変な成功を収めた。シュトラウスとオッフェンバックが初めて会ったのもこの頃のことである。オッフェンバックはシュトラウスに「あなたはオペレッタを作曲すべきだ」と言ったという。しかし、シュトラウスはそうしなかった。なぜなら、既にウィーンではフランツ・フォン・スッペの作品が大成功を収めており、自分がオペレッタの世界に入る余地がないと考えていたのである。そういったこともあって、彼がオペレッタに手を染めることはなかった。 そんなシュトラウスに転機が訪れたのは、1869年になってからである。前年『美しく青きドナウ』を発表して大成功を収めていたシュトラウスに対して、劇場の支配人たちが、いずれシュトラウスが劇作品を発表しだすと考え始めたのである。その中の一人にアン・デア・ウィーン劇場支配人マックス・シュタイナーがいた。シュタイナーはシュトラウスの妻イェッティ(元女優で顔が広い女性でもあった)に夫にオペレッタ作曲を勧めることを依頼した。これを引き受けた妻は夫を説得し、最初のオペレッタの台本『ウィンザーの陽気な女房たち』が渡され、作曲が開始された。この作品は、主役を誰が演じるかでプリマドンナ2人が激しく争った結果、これにうんざりしたシュトラウスが怒って、上演は頓挫した。 しかしシュタイナーは諦めず、次の台本『インディゴと40人の盗賊』を渡した。かくして1871年2月10日、シュトラウスのオペレッタ第1作『インディゴと40人の盗賊』はアン・デア・ウィーン劇場で初演された。この作品はある程度の成功を収めたものの、台本の不備が次第に観客に露呈されたことで、やがて上演打ち切りに追い込まれた。しかし、シュトラウスはオペレッタで成功を収めるという思いを捨てなかった。続いて1873年、オペレッタ第2作『ローマの謝肉祭』が作曲され、同年3月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演される。しかし、この作品は失敗に終わった。『こうもり』が誕生する前年のことである。
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