エディス・アリス・モレル(Edith Alice Morrell)
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「ジョン・ボドキン・アダムズ」の記事における「エディス・アリス・モレル(Edith Alice Morrell)」の解説
モレルは、チェシャーにいる息子のもとを訪れているあいだに1948年6月24日に脳血栓症(発作(a stroke))をわずらった、裕福な未亡人であった。彼女は部分的に麻痺し、そして入院させられた。彼女のかかりつけの医師であるアダムズは、26日に到着しそして翌日に彼女は痛みのためにモルヒネ(4分の1グレーン)を処方された。アダムズは彼女をイーストボーンに連れ帰り、そしてモルヒネをつづけ、服用量を徐々に増やし、ついに彼女は常用中毒者になった。[要出典] モレルはいくつかの遺言書をつくった。なかにはアダムズが、大金、モレルのロールス・ロイス・シルヴァーゴースト(1500ポンド相当)および家具を受け取ったものもあれば - 全然、彼の名が挙げられていなかったものもあった。さいごに、1950年9月13日に、彼女の遺言書からアダムズを完全にとりのぞく補足書が書かれた。1年間と3ヶ月間の治療ののち、彼女は1950年11月13日に81歳で死亡した。アダムズは、死因を「発作」("stroke")と証明し、そして遺体を検査するとき、彼女が死亡していることを確認するために彼女の手首に細長い切れ込みをいれた。最後の補足書にもかかわらず、アダムズは、ロールス=ロイス、ジャコバンの食器棚(Jacobean court cupboard)および276ポンド相当の銀のカトラリーをふくむアンティークなチェストを相続した。モレルの死ののち、彼はまた、彼女がじぶんに買った赤外線ランプ 60ポンド相当 を運びさった。アダムズは、1100回の訪問でモレルの財産をビラで宣伝し、それには全部で1674ポンドを費やした。警察は、アダムズはモレルの治療中に彼女のもとを、あわせて321回訪れたと見積もった。彼女の火葬用紙で、アダムズは「自分が気づいているかぎりでは」("as far as I am aware")自分は死にたいして金銭的関心をもっていないと述べ、それによって検視の必要を避けた。
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