ウルキーサの連邦派
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ウルキーサはロサスと同じ連邦派だったが、ロサスとは違って中央政府を作って連邦主義を法制化することによりブエノスアイレス以外の諸州の利益を確保しようとした。この時に自由主義者で欧化主義者のフアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法は、形式的には連邦主義でありながらも、実質的には中央政府の州政府への干渉権を認めた中央集権的憲法だった。 しかし、 それでもブエノスアイレス州は連邦主義者のウルキーサが国政を牛耳るのに我慢ならず、1852年には独自の憲法を作ってアルゼンチン連合を離脱してしまう。ロサスに弾圧されたブエノスアイレスの自由主義者も、市が連邦に取り上げられ、港の利益が連邦のものになるのは認められなかったのだ。 ウルキーサはブエノスアイレス以外の州を合わせてアルゼンチン連合を建国し、首都をエントレ・リオス州のパラナに定めるが、この国家は全く機能しなかった。海外貿易の出来ない時点で国家としては失敗していたのだ。ここでもしモンテビデオがアルゼンチン領ならば、ブエノスアイレスではなくモンテビデオを通して海外との貿易が可能だったかもしれないが、既にモンテビデオはウルグアイとして独立しており、しかもウルグアイは親ブラジル派のコロラド党が政権に就くことがほとんどだったのだ。 このような混乱の中で1861年にブエノスアイレス州知事バルトロメ・ミトレがパボンの戦いでウルキーサのアルゼンチン連合軍を破り、1862年には自ら大統領に就任した。こうしてブエノスアイレス主導でアルゼンチンの中央集権的統一が達成された。 三国同盟戦争が勃発するとウルキーサはパラグアイ大統領のソラノ・ロペスと密約を結び、もしミトレ政権がパラグアイ軍のアルゼンチン領土通行を認めないなら、ミトレに対して決起する予定だったが、この密約は履行されず、ウルキーサに密約の履行を迫ってパラグアイはアルゼンチンに宣戦布告した。しかし、ウルキーサは動かず、各地の連邦派カウディージョはウルキーサを頼らずに決起した。特にカタマルカ州のカウディージョ、フェリペ・バレーラ(スペイン語版、英語版)はラテン・アメリカ諸国の団結と、三国同盟戦争への反対を訴えて反乱を起こしたが、1869年に敗北し、バレーラはチリに亡命した。 三国同盟戦争が終結した1870年、ウルキーサは連邦派のロペス・ホルダン(英語版)に暗殺された。その後ガウチョやカウディージョといった土着勢力が近代化の圧力の前に敗北すると連邦派は壊滅し、畜産品モノカルチャーの下でイギリスの非公式植民地のようになっていたブエノスアイレスは全アルゼンチンを植民地のように支配した。
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