ウマ謀殺事件とは? わかりやすく解説

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ウマ謀殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/20 09:18 UTC 版)

ウマ謀殺事件(ウマぼうさつじけん、horse murders scandal)は、アメリカで高価な競走馬(その多くが障害飛越競馬である)が死亡事故、または疾病保険をかけられ、保険金を受け取るために殺された複数の保険金詐欺事件を指す。

FBI捜査が複数の競走馬殺しを明るみに出した1970年代半ばと1990年代半ばの間に、殺された競走馬の数はは50頭をはるかに超えていると考えられており、100頭に達していた可能性もある[1]。そのうえ、1977年に女相続人ヘレン・ブラッシュ(Helen Brach)が失踪し、法執行機関によって彼女は彼らの犯罪活動を当局に報告するぞと脅していた為に、これらの犯罪の加害者らによって謀殺されたと推定された[2][3]。ブラッシュの死亡に関する捜査はつづき、1990年代に保険金詐欺が明らかになり始めた[4]

このスキャンダルは「乗馬スポーツ史上最大のスキャンダル」("the biggest scandal in the history of equestrian sports.")[5]、「スポーツで、最大な、いちばん身の毛のよだつような話のうちの1つ」("one of the biggest, most gruesome stories in sports")[5]とも称されている。

36人が起訴され、ウマ謀殺複数との関連で保険金詐欺(insurance fraud)、郵便詐欺(mail and wire fraud)、司法妨害(obstruction of justice)、恐喝(extortion)、ラケッティアリング(racketeering)(→RICO法)、動物虐待(animal cruelty)の罪で公判に付され、1人を除いて全員が有罪判決を受けた[5][6]1994年7月シカゴで起訴された23人のうち20人が罪を認めた[7]

ヘレン・ブラッシュの失踪と謀殺は完全には解決されなかったが、リチャード・ベーリー(Richard Bailey)が彼女の謀殺を教唆したために終身刑に服している[2][3]

また、ウマ謀殺事件には、いくつかの異なる動機により馬主らとトレーナーら、裕福尊敬される人々が、関与していたこともわかっている。

いくつかの場合では、有望な、あるいは賞を受賞さえした競走馬の馬主が一時的に現金で縛られ、保険をかけその後その動物を殺すことに決めた。これが、1982年にショー飛越馬ヘンリー・ザ・ホーク(Henry the Hawk)が謀殺されたときの状況であった。

ときどき人々は過大評価された競走馬らを買った。それらのオーナーらは、貧弱な投資損失をこうむることよりも、不要な競走馬に保険をかけ、保険会社をだますことによって次の競走馬を購入する資金を調達することを選択した。

このスキャンダルのもう1つの側面は保険金詐欺をこえて、ラケッティアリングを巻き込んだ。信用詐欺の1形式であるこの計画は、裕福な未亡人らに競走馬への投資を奨励することによって彼女らの金銭をだまし取ることから成る。競走馬は通例、過大評価あるいは過小評価され、共謀者らは、オーナーらにどれだけ超過出費したかを明らかにさせないためにその馬を殺した。いくつかの場合は、その女らが投資する前に、これらの利益を生まない動物らは、購入者らにとってより望ましく見せようとして、共同共謀者らによって最初に価値が「せり上げ」("bid up")られた[2]。またいくつかの場合において、さくらの買い手らは、それぞれ購入定価を半分上げながら、共謀しているオーナーまたはトレーナーからその馬を共同購入しようと申し出たものである。さくらの買い手からの小切手は破棄されたものであり、その信用詐欺師2人は、その裕福な女の買い手が支払った金銭を預け分割した。もし彼女が、購入した馬が比較的無価値ではないかと疑いはじめるならば、それは保険金のために殺された。そうなれば彼女を経済的に落ち着かせるであろうし、もし共謀者らがまだ彼女の信頼を持っているならば、そのとき彼女は別の共同所有のウマに投資するように促され、このサイクルを繰り返すであろう[2]。この形式の信用詐欺を働いた男らはしばしば、彼らがだまし取った未亡人らに対してジゴロとして行動した[2][3]。これは裕福な未亡人ヘレン・ブラッシュが 明らかにしたこれら計画の1つであった。彼女が自分に犯された詐欺を報告する意図を発表したとき、彼女の失踪と謀殺につながった[2]

有名な事例

ドラックのヘンリー・ザ・ホーク

1981年フロリダ州オカラ(Ocala)のリサ・ドラック(Lisa Druck)17歳(現在はリエル・ハンター(Rielle Hunter)として知られる)は、ヘンリー・ザ・ホーク(Henry the Hawk)という名前のショー・ウマを所有し乗っていた。リサ(1964年6月6日生まれ)は未成年であったために、彼女の財政は、イーグル・ネスト・ファーム(Eagle Nest Farm)の弁護士兼オーナーである父親ジェームズ・ドラック(James Druck)によって管理されていた。ドラックの法律実務は、保険会社をクレームから守ることから成っており、彼は、もし馬が特定の方法で感電死するならば、獣医病理学者が不正行為の兆しを見つけるのは非常に困難であろう、その死亡は馬疝痛のせいにされるだろうことを知っていた。ABCニュースによれば、リサは、「父親が保険金のために競走馬を感電死させる狡猾な陰謀に巻き込まれた、受賞歴のある乗馬者」("a prize-winning equestrian when her father was implicated in an insidious plot to electrocute horses for insurance money.")であった[8]

1990年代前半のジェームズ・ドラックの死後、有罪判決を受けた馬殺害犯で FBI情報提供者トミー・バーンズは当局と記者らに、「ジェームズ・ドラックは最初に娘の馬を150,000ドルで売ろうとしていたが、しかし彼が受けた最高の申し出はわずか125,000ドルであった」と語った。彼はその後バーンズを雇い、馬を感電死させる方法を彼に個人的に教え、バーンズの最初の感電死器具セットを購入した[1]。ドラックがバーンズを雇って殺した最初のウマはヘンリー・ザ・ホークであり、その生命保険契約は15万ドルの価値があった。ジェームズ・ドラックとトミー・バーンズはかくして、「ウマ謀殺犯」("horse murderer")として10年間のキャリアを始めた[1]

ジェームズ・ドラックは、1982年に娘の馬の殺害を手配して15万ドルの保険契約で受け取ったが、彼はFBIによって捜査されていた[9]そのとき、1990年に彼はフロリダ州タンパで癌のために死亡した[10]

ヘレン・ブラッシュ

裕福なソーシャライトであったヘレン・ブラッシュはヒトの犠牲者である[2]。ブラッシュは、1977年に65歳で失踪した億万長者のキャンディの会社の相続人であり動物愛好家であった。彼女の遺体は発見されなかったいっぽうで、1984年死亡宣告された。捜査官らは、彼女が競走馬の過大評価について自分が知っていることを明らかにすると脅したため、彼女が謀殺されたのではないかと疑った。もしそうならば当局を、後に彼女の殺人の役割で起訴されたリチャード・ベーリーによって行われた一連の競走馬殺害の線に導いたであろう[2]

ブラッシュの謀殺を取り巻く諸事件は、リチャード・ベーリーによってなされた控訴を裁定する連邦第7巡回区控訴裁判所(United States Court of Appeals for the Seventh Circuit)によって要約された。

Brach's Confections の財産の億万長者の相続人ヘレン・ボーヒーズ・ブラッシュ(Helen Vorhees Brach)は、ベーリーの犠牲者らの1人であった。彼女は1973年にベーリーに会い、彼らは関係を結んだ。1975年に、ベーリーの兄弟であるポールは馬3頭を98,000ドルで売った。ベーリーもブラッシュには知られずに売却に参加しており、馬3頭の価値は2万ドル未満であった。さらに、ブラッシュは高価な、子を孕ませるために飼う牝馬を1グループ購入した。1977年大晦日に、ブラッシュとべーリーはニューヨークの Waldorf-Astoria で「夜じゅうダンスした」('danced the night away')が、関係はすぐに悪化し始めた。1977年前半に、ベーリーと或る共同共謀者は、ブラッシュを説得しより多くの馬に15万ドルを投資させたいと考え、彼女のために大規模な展示を手配したが、ブラッシュは1時間足らずで立ち去った。さらに、ベーリーが推奨するトレーナーの50,000ドルの見積もりに反して、ブラッシュが雇った鑑定士は、最初の購入3つのうちの1つをトレーニングするために何も投資しないことを奨めた。このころ、ブラッシュは自分の繁殖家畜を訪れもした。彼女は牝馬らを見た後、だまされたことについて絶叫しながら、聞こえるところにいる人にはだれにでも自分が地区首席検察官事務所に行くと知らせながら、厩舎で公然と怒りを示した。その後、彼女は或る親友に、自分は、見ていたもっと若い男(ベーリー)から馬を購入することで心配していると語り、友人が州検察官らを知っていると聞いた後、彼女は、メーヨー・クリニックへの次回の訪問から戻った後、州の弁護士事務所を訪問することを承知した。1977年2月17日にブラッシュはメーヨー・クリニックから出発した。彼女の姿を二度と見ることはなく、彼女の遺体も発見されなかった。ベーリーは彼女の失踪に関連してインタビューを受けたが、その時点で起訴されていなかった[3]

ヘレン・ブラッシュは失踪して7年後の1984年に、法的に死亡したと宣言された。1997年に、彼女の死亡と、社会的に著名な馬所有者らとその雇われた馬殺人犯らが関与する陰謀との関係は、ケン・イングレード(Ken Englade)によって書かれた『Hot Blood: The Money, the Brach Heiress, the Horse Murders,』の主題になった[2]

ウマ殺害犯ら

トミー・バーンズ

トミー・「サンドマン」・バーンズ(Tommy "The Sandman" Burns)(別名ティミー・ロバート・レー(Timmy Robert Ray))は、共謀者らのために「馬を眠らせた」("put horses to sleep")ために、そのニックネームがついた[1]。[sandman は、おとぎ話などで、子供の眼に砂をふりまき入れて眠くさせるという睡眠の精]。彼は感電死装置でいっぱいのアスレチック・バッグを持って厩舎を訪れながら、ショー・サーキットを旅し、5,000ドルから40,000ドルの範囲の報酬で[11]、――一般的にその馬に掛けられた保険料の10%で――彼はオーナーらのために馬を殺し、オーナーらはその後、保険会社複数をだまし取った金銭から彼に支払いをしたものであった。バーンズは動物らの破壊を感電死――彼が1982年にジェームズ・ドラックから学んだ手口――は、迅速で無痛であるという理由で正当化した。

1992年に、『Sports Illustrated』に書いている調査報道記者ウィリアム・ナック(William Nack)とレスター・マンソン(Lester Munson)は、バーンズにインタビューした。バーンズは陰謀がどのように機能したかについて彼らに多くを語った。

バーンズが好んだウマらの殺害方法は感電死だった。彼はこう言う、保険会社複数を代表する、フロリダ州オカラの弁護士故ジェームズ・ドラックが、ドラックが華麗なショー飛越馬ヘンリー・ザ・ホークを殺すために彼に支払いをした。1982年のあの日からずっとそうだったし、 ドラックはヘンリー・ザ・ホークに150,000ドルの生命保険をかけていた。バーンズはこう言う、いやそれどころか、ドラックはヘンリー・ザ・ホークを感電死させるためにワイヤーを装備する方法を彼に個人的に教えた――延長コードを真ん中をスライスしてワイヤー2本にする方法。各ワイヤーのむきだしの端にワニ口クリップを1組取り付ける方法。そしてそれらクリップを馬に取り付ける方法――1つはに、もう1つは直腸に。バーンズはこう言う、彼がしなければならなかったのは、コードを標準の壁ソケットの中にプラグすることだけであった。そして、後退する[1]

ハーロー・アーリー

1989年、バーンズはストリートワイズ(Streetwise)という名前の飛越馬を殺すために雇われた。この馬はドナ・ブラウンが所有していた。ドナ・ブラウンは元アメリカ・オリンピック騎手バディ・ブラウン(Buddy Brown)の元妻であり、バディ・ブラウンはかつてロード・アイランドのポール・ヴァリエールの農場でトレーナーをしていた。その馬はすでに疝痛をわずらっており、かくしてその病気に対して保険をかけられなかったために、感電死は謀殺の方法として除外された。ドナ・ブラウンは、バーンズがその動物の脚を骨折し、それを事故のように見せ、馬は獣医によって安楽死させられねばならないだろう、と主張した。バールズは、ハーロー・アーリー(Harlow Arlie)と称する男に行為を下請けに出すことに決めた。ハーロー・アーリーはかなてこでウマの脚を不自由にすることをいとわなかった[1][12]

この時までに、FBIはバーンズを監視下に置いており、エージェントらはストリートワイズへの致命傷を防ぐには遠すぎたが、短い追跡の後バーンズとアーリーを捕まえた。男2人は犯罪を自白し、バーンズは、強力な元雇用主らによる法的援助なしに残されたことに対する報復としてFBIの情報提供者になり、自分を雇った何十人もの人々の名前を明らかにした[11]。彼の告白の結果として、36人が動物虐待と保険金詐欺で逮捕され、うち35人が有罪判決を受けた[1]

ハーロー・アーリーはシカゴ連邦大陪審の前で馬のショー業界での保険金詐欺を捜査したことを証言した後、ストリートワイズの脚を骨折したことで8か月の刑に服した[11]

バーンズは、他の多くの共謀者の名前を明らかにし、ストリートワイズの脚を骨折することをふくむ犯罪で1年の判決を受けた。彼は6か月服した。彼は現在フロリダに住み、合法的に名前をティム・レー(Tim Ray)に変更している。彼は現在、生活のために自動車部品を売っている[5][9]

リチャード・べーリー

保険をかけられた競走馬を殺す方法として感電死と脚の骨折だけが採用されたのではない。放火がもうかるように見えたとき、ウマ保険のみならず建物保険でも受け取るために、厩舎1つが全焼されせられた。兄弟と争ったリチャード・ベーリー(Richard Bailey)と、フランク・ジェーンと彼の家族は何十年にもわたって、イリノイウィスコンシンのアッパー・ミッドウェスト諸州の乗馬界に「暴力の痕跡」("a trail of violence")を残したと言われている[13]

リチャード・ベーリーは1995年にラケッティアリング、郵便詐欺、電信詐欺、およびマネー・ロンダリングで罪を認め、ヘレン・ブラッシュの謀殺での自分の役割で終身刑を宣告された[3]

共謀者ら

ポール・バリエール

ウマのトレーナーらは、ロードアイランド州ノーススミスフィールドのエーカーズ・ワイルド・ファームの所有者ポール・バリエール(Paul Valliere)を含め、バーンズと共にに陰謀に参加した。1994年、バリエールはバーンズを雇って曲芸馬のロゾー・プラティエール(Roseau Platiere)を感電死させ、保険金75,000ドルを受け取ったことを認めた。ひとたび逮捕されると、バリエールは共犯者に不利な証言をした。彼は、連邦当局のための情報収集をしながら1年間盗聴器を身に着けており、当局は陰謀を調査していた[6]

ポール・ヴァリエールは法執行機関との協力により、1996年保護観察4年の刑を言い渡され、罰金5,000ドルを支払うよう命じられた。彼はまた、アメリカン・ホース・ショー・アソシエーション(AHSA)によって認可された曲芸馬ショーへの参加を無期限に停止された。2006年、バリエールは、 ユナイテッド・ステーツ・エクェストゥリアン・フェデレーション(United States Equestrian Federation)(旧AHSA)への復帰を試みて、彼の犯罪を思い出した人々の間に激怒を引き起こし、自分に乗馬イベントへの参加を永久に禁止させるオンライン運動の口火を切った[12][14]

バーニー・ウォード

バリエールの親友の1人、ロードアイランド生まれのトレーナー、バーニー・ウォード(Barney Ward)は、ニューヨークのブリュースター(Brewster)のキャッスル・ヒル農場を所有しており、彼も裕福なオーナーらのために複数の馬殺害を手配した[6][15]。バーンズは、ウォードはバーンズが15頭の馬を殺害するよう手配した、と言った[4]

ウォードは1994年に馬4頭の殺害を手配したことで訴えられた。彼は訴えについて無実だと主張したが、1996年に、1987年から1990年の間に保険金の支払いのために馬4頭を殺害することを共謀した罪を認めた――カリスマ(Charisma)、コンディノ(Condino)、ラブ・ザ・ランプ(Rub the Lamp)、およびロゾー・プラティエール(Roseau Platiere)[4]。法廷文書の中で、彼は「認めた、殺害者を雇ってウマらを虐殺した人々について黙っておくよう殺害者に命じたこと。もし彼が[ウォードの]友人らや仕事仲間について黙っていれば、[ウォードは]彼に金銭を払うだろう。[そして]その[ウォードは]後にウマ殺害者と話し、[...]もし彼が[ウォードを]傷つけるために何かしたならば自分は馬の殺し屋を殺すだろうと言ったこと。」("admitted that he told the horse killer to keep quiet about the people who hired the killer to slaughter the horses, and, if he kept quiet about [Ward's] friends and business associates, [Ward] would pay him money.[and] that [Ward] later spoke with the horse killer and [...] said that he would kill the horse killer if he did anything to hurt [Ward].")[16]

ウォードは33か月の刑を言い渡され、その後3年間の保護観察が行われ、詐欺された保険会社のうち1社に賠償金20万ドルを支払うよう命じられた[12][16]。ウォードは釈放されるや、 AHSAを訴えた。AHSAは認可されたショーへの彼の参加を禁じていた。彼は「自分は私市民でありもはや AHSA のメンバーではないので、息子が乗馬イベントで競うのを見守るのは自分の権利である」と主張した。2000年に、ニューヨーク州最高裁判所は、ウォードの犯行時のAHSAにおけるメンバーシップ(および組織の規則にしばられるという彼の約束)は、現在のメンバーシップのステータスに関係なく、AHSAに彼を懲戒することを許可すると裁定し、議論は無価値であるとした[16]

ドナ・ブラウン

ポール・ヴァリエールの元知人バディ・ブラウンの元妻ドナ・ブラウン(Donna Brown)は、ストリートワイズの脚を骨折するためにトミー・バーンズとハーロー・アーリーを雇ったことで有罪判決を受けた[12]

余波

1993年、2,500人の馬術イベントを認可する、60,000人のメンバーのユナイテッド・ステーツ・エクェストゥリアン・フェデレーション(United States Equestrian Federation)(USEF)(当時はアメリカン・ホース・ショーズ・アソシエーション(American Horse Shows Association)(AHSA))会長ジェーン・F・クラーク(Jane F. Clark)は『ニューヨーク・タイムズ』に、自分の組織が連邦当局に完全な協力を与えていたと語り、彼女は「捜査が完了し、いかなる有罪の当事者も公判に付されるのを待ち望んでいた」("eager to see the investigation completed and any guilty parties brought to justice.")と述べた。1995年までに、AHSA(現USEF)は、ウマ謀殺複数に関連するさまざまな犯罪で起訴された多くのメンバーを追放した。それはマリオン・ヒューリック(Marion Hulick)、バーニー・ウォード(Barney Ward)、ポール・バリエール(Paul Valliere)を含む。

本事件を題材とした作品

1988年に――トミー・バーンズの逮捕およびウマ謀殺陰謀の沈黙のその後の解明のずっと前に――ブラット・パック(Brat Pack)小説家ジェー・マキナニー(Jay McInerney)は、『Story of My Life』という『鍵のあるロマン』(roman à clef、実話小説)の基礎を、ジェームズ・ドラック(James Druck)の娘である元ガールフレンド リサ・ドラック(Lisa Druck)の青年期に置いた[17][18]。マキナニーの小説は、主人公アリソン・プール(Alison Poole)の「パーティー・ガール」("party girl")行動の原因は、賞金飛越馬の謀殺を含む父親の虐待であることを示唆している。

マキナニーはこう言っている、自分はドラックと彼女の友達らについて書くことを選んだ、なぜなら自分は彼らの行動に「好奇心をあおられ、かつぞっとさせられた」("intrigued and appalled")し、主人公アリソン・プールはドラックをもとに作られて、「表向きは疲れきった、コカインで頭の混乱した、性的にどん欲な20歳」("an ostensibly jaded, cocaine-addled, sexually voracious 20-year old.")と描写された。『Story of My Life』は、アリソン・プールの父親の描写と、自分のウマ――物語の中で「デインジャラス・ダン」("Dangerous Dan")(危険なダン)と呼ばれる――が突然「ぽっくり死(い)った」とき乗馬をあきらめたという彼女の一見ふと出たように見える言葉、リサ・ドラックの前半生と密接に平行している詳細から始まる。

I'm like, I don't believe this shit. … [Dad] buys his new bimbo Tanya who's a year younger than me a 450 SL convertible ーー always gone for the young ones, haven't we, Dad? ーー plus her own condo … My old man is fifty going on twelve.… Nothing my father does surprises me anymore.… My parents have seven marriages between them … Acting is the first thing I ever really wanted to do.Except for riding.When I was a kid I spent most of my time on horseback.I went around the country showing my horses and jumping, until Dangerous Dan dropped dead.I loved Dan more than just about any living thing since and that was it for me and horses.[17]

小説の中では、アリソン・プールのウマは感電死されず毒殺されているが、しかしドラックの実生活でと同じように、物語の終わりで、この謀殺のオーケストレーターがこの若い女の父親であったことが明らかになっている――

わたしはあのウマを愛していた。 ... 彼が毒殺されたとき、わたしはショックを受けた。彼らはわたしを1週間精神安定剤で飼っていました。捜査があった。何も起こらなかった。保険会社は全額支払ったが、わたしは乗馬をやめた。数か月後、ある夜父がわたしの寝室にやって来た。わたしは、ええと、これは二度とないようなものであった。父はわたしの肩に顔をうずめた。父の頬は濡れていたし、酒臭かった。デンジャラス・ダンについては申し訳ない、と父は言った。わたしを許すと言っておくれ。[17]

Story of My Life』は、最初に登場したとき、それは『鍵のあるロマン』(roman à clef、実話小説)小説であるという公然たる憶測があった。『New York Magazine』の「それは事実ですか? それは起こったのですか?」という質問に、マキナニーは答えた「わたしはその種の憶測のいくつかを予想していますが、訴訟をかかえていないことを完全に確信しています。この本は完全に想像されたフィクション作品です。一方で、それを利用しなかったわけではありません … だからニューヨークに住んでいるのです。わたしのは独立した想像ではありません。」("I'm anticipating some of that kind of speculation, but I'm utterly confident of not having any lawsuits on my hands.The book is a fully imagined work of fiction.On the other hand, it's not to say that I didn't make use of … That's why I live in New York.Mine is not an autonomous imagination.")

ウマ謀殺の陰謀へのマキナニーの言及は、小説の出版時にスポーツ・ジャーナリストらや一般メディアによって注目されないでいた、なぜならスキャンダルそれ自体はまだ全国紙で明るみに出ていなかったからで、しかしこの小説はジョン・エドワーズーリエル・ハンターの婚姻外の情事をきっかけに新たな関心を集めた。2008年8月に、Vintage Books は、リエル・ハンター-ジョン・エドワーズ・スキャンダルによって生み出された関心をきっかけに、この本を2,500部追加注文した[19]

脚注

  1. ^ a b c d e f g William Nack and Lester Munson (1992年11月16日). “Blood Money: In the rich, clubby world of horsemen, some greedy owners have hired killers to murder their animals for the insurance payoffs”. Sports Illustrated. http://vault.sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1004483/1/index.htm 2008年8月11日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i Englade, Ken (1997). Hot Blood: The Money, the Brach Heiress, the Horse Murders. New York: Macmillan. ISBN 0-312-95726-2. https://books.google.com/books?q=%22Hot+Blood%22+%22Ken+Englade%22+Druck&btnG=Search+Books 
  3. ^ a b c d e caselaw.lp.findlaw.com
  4. ^ a b c Timothy O'Connor (2008年8月20日). “Criminal past haunts Brewster horse family”. Lower Hudson Valley Journal-News. http://tuesdayshorse.wordpress.com/tag/horse-murders/ 2011年11月6日閲覧。 
  5. ^ a b c d Munson, Lester (2008年8月14日). “Edwards' "other woman" revives memories of gruesome scandal”. ESPN. http://sports.espn.go.com/espn/columns/story?columnist=munson_lester&id=3533725 2008年8月14日閲覧。 
  6. ^ a b c Robin Finn (1995年10月30日). “Horse Show; Equestrians Facing Competition and Lingering Scandal”. The New York Times. https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9803E5DF1639F933A05753C1A963958260&sec=&spon=&pagewanted=all 2008年8月14日閲覧。 
  7. ^ New York Times (1996年1月19日). “3-Year Term In '90 Killing Of Prize Horse”. The New York Times. https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C04E4DE1E39F93AA25752C0A960958260 2008年8月16日閲覧。 
  8. ^ Baram, Marcus (2008年8月12日). “The Many Lives of Rielle Hunter: From Equestrian With an Infamous Father to NYC Party Girl Immortalized in Fiction, Hunter's Life Story Is Unique”. ABC News. http://www.abcnews.go.com/Politics/story?id=5560261&page=1 2008年8月12日閲覧。 
  9. ^ a b Lambiet, Jose (2008年9月13日). “Dad of Edwards' mistress had dark side”. Palm Beach Post. http://www.palmbeachpost.com/news/content/local_news/epaper/2008/08/12/a2a_jose_0813.html 2008年8月11日閲覧。 
  10. ^ Hiers, Fred (2008年8月12日). “John Edwards affair story has an Ocala angle”. Ocala Star Banner. http://www.gainesville.com/article/20080812/NEWS/23042967&title=John_Edwards_affair_story_has_an_Ocala_angle 2008年8月12日閲覧。 
  11. ^ a b c Don Terry (1993年9月5日). “On Killing Horses for Money: A Craftsman's Dirty Secrets”. The New York Times. https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE0D8173FF936A3575AC0A965958260&sec=&spon=&pagewanted=all 2008年8月14日閲覧。 
  12. ^ a b c d Tom Meade (2006年2月1日). “R.I. horse killer is eligible for reinstatement: Paul Valliere, who admitted paying a hit man in 1994 to electrocute a show horse for insurance money, could be reinstated to the United States Equestrian Federation, provoking outrage among equestrians across the country.”. The Providence Journal. http://www.projo.com/sports/content/projo_20060201_01horse.12cecb79.html 2008年8月14日閲覧。 
  13. ^ Frank Main and Don Rozek (2001年5月4日). “Arrest revives saga of murder, arson, fraud”. Chicago Sun-Times. http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=CSTB&p_theme=cstb&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0ECC89E023959D2F&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D&s_trackval=GooglePM 2008年8月15日閲覧。 
  14. ^ sportsillustrated.cnn.com
  15. ^ New York Times (1995年9月22日). “Top Equestrian Is Convicted In Horse Insurance Scheme”. The New York Times. https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CE7DF173EF931A1575AC0A963958260&sec=&spon=&pagewanted=1 2008年8月15日閲覧。 
  16. ^ a b c American Horse Shows Assn. v. Ward, 718 N.Y.S.2d 593, 186 Misc.2d 571 (2000)
  17. ^ a b c McInerney, Jay (1989). Story of My Life. New York: Vintage Books. ISBN 0-679-72257-2 
  18. ^ Johnson, Richard (2008年8月6日). “Novel Tale of Pol's 'Mistress'”. New York Post. オリジナルの2008年8月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080828035027/http://www.nypost.com/seven/08062008/gossip/pagesix/novel_tale_of_pols_mistress_123174.htm 2008年8月6日閲覧. "わたしたちはほんの数ヶ月しか付き合っていなかったが、その間、わたしは彼女と彼女の友達と多くの時間を過ごした、その振る舞いはわたしの興味をそそり、また驚かせたために、わたしはその経験に基づいて小説を書くことになったほどである。" 
  19. ^ “Edwards' mistress was basis for '80s book character”. Baltimore Sun. (2008年8月14日). オリジナルの2012年7月22日時点におけるアーカイブ。. https://archive.today/20120722041749/http://www.baltimoresun.com/entertainment/news/bal-to.people122aug12,0,632658.story 2008年8月14日閲覧。 



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