インカタ自由党の設立とANCとの対立
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「マンゴスツ・ブテレジ」の記事における「インカタ自由党の設立とANCとの対立」の解説
ズールーでは1920年代、ソロモン王の治世にインカタ(草の冠)という名の文化面での諮問機関が設立されていたものの、数年で活動を停止していた。この文化協会を復活させるようANC亡命指導部の議長であるオリバー・タンボに勧められたブテレジは、1975年にインカタを再興した。この政党は当初アフリカ民族会議(ANC)から支持を受けていたものの、一方で黒人意識運動の指導者の多くはブテレジの政策に明確に反対していた。たとえばロバート・ソブクウェはブテレジを国民党政府の協力者であると非難し、このため彼は同運動系の施設への立ち入りを禁止された。1979年に、ブテレジとインカタ自由党は、ANCが軍事部門ウムコント・ウェ・シズウェによる武装路線を支持していることを理由に、両党の関係を断絶した。この対立を解消するためにロンドンで両党間の会議が行われたものの溝は埋まらず、両党の関係は急激に悪化した。 1982年、ブテレジは、ナタール北部のイングワブマ地域をスワジランド政府に譲渡するという国民党政府の計画に反対した。裁判所は、1972年の独自の黒人基本法において定められた地域住民との協議を行わなかったという理由で、彼に有利な判決を下した。結局、この反対によって同地の割譲計画は中止された。 この時期まではインカタとANCの対立は未だに激しいものとはなっていなかったが、1984年に統一民主戦線(UDF)が結成されると、全黒人の団結を重視するUDFとズールー人の利益を重視するインカタとの対立が先鋭化し、UDFと強いつながりを持つANCとの関係もまた悪化していった。ブテレジはマグヌス・マラン将軍と協力して、1984年から1994年にかけてウルンディやクワズールーにおいて若者を徴募し、準軍事組織を設立していたとされる。
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