アーサー・オートン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/01 23:49 UTC 版)
「ティッチボーン事件」の記事における「アーサー・オートン」の解説
1867年、主張者は高等法院での審理において、オーストラリア到着後の足取りを証言した。それによると、彼は1854年にメルボルンに到着し、トマス・カストロと名乗ってギプスランドの牧場で働いた。そこで彼はアーサー・オートンなるイギリス人と知り合った。牧場での仕事を辞めた後の主張者は、(時にオートンと一緒に)オーストラリアを放浪して様々な職業に就いた後、1865年にウォガウォガで肉屋を始めたということだった。 ティッチボーン家の人々はこの情報に基づき、オーストラリアに私立探偵を派遣して調査させた。牧場主の未亡人が保管していた雇用記録に「トマス・カストロ」の名はなく、「アーサー・オートン」のみが記載されていた。牧場主の未亡人はまた、主張者の写真を見て、これはアーサー・オートンだと証言した。ウォガウォガの地元住民の一人は、カストロが肉屋の商売をワッピングで身につけた、と言っていたことを記憶していた。これらの情報に加え、主張者がロンドン到着直後にロンドン東部の下町ワッピングに住むオートン家を訪れていたことも発覚した。 アーサー・オートンは1834年、ワッピングで肉屋の息子として生まれた。1850年代前半に船員となってチリに向かい、1852年にタスマニアに到着した後、オーストラリア本土に移動した。1857年頃、アーサーは賃金を巡って揉め、フォスターの農場を辞めた。その後の記録は見つからず、カストロと同一人物でなければ、オートンはそこでふっつり姿を消してしまったことになる。主張者は、アーサーと一緒にいくつか犯罪的行為に手を染めていたため、当局の眼をごまかすために時々名前を交換していた、とほのめかしていた。ワッピングのオートン家の人々は、主張者がアーサーだとはわからなかった(しかし後に、彼らが主張者から金を受け取っていたことが明らかになっている)。ただし、アーサーの元恋人メアリー・アン・ローダーは、主張者がアーサーであると認めた。 こうして、主張者ことトマス・カストロの正体はアーサー・オートンであるという見方が浮上した。
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