アンナ (キエフ大公妃)
(アンナ・ポルフィロゲネタ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:15 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2007年12月)
( |
アンナ Анна |
|
---|---|
キエフ大公妃 | |
|
|
全名 | アンナ・ポルフィロゲネタ Άννα Πορφυρογέννητη |
出生 | 963年3月13日 |
死去 | 1011/2年 |
埋葬 | キエフ、什一聖堂 |
配偶者 | キエフ大公ウラジーミル1世 |
家名 | マケドニア家 |
父親 | 東ローマ皇帝ロマノス2世 |
母親 | テオファノ |
アンナ(ギリシア語:Άννα;古ルーシ語:Анна、963年3月13日 - 1011年あるいは1012年)は、キエフ大公国の大公ウラジーミル1世の妃。
東ローマ帝国の皇帝ロマノス2世の娘で、バシレイオス2世の妹。
概要
ウラジーミル1世がバシレイオス2世の援軍をしたことから、バシレイオス2世がウラジーミル1世に縁組させた。
ウラジーミル1世とアンナの結婚でキエフ大公国の国教がキリスト教(東方正教会)になり、正教会の勢力が拡大した。
年代記によれば、美人で気の強い性格だったと言われる。
アンナ・ポルフィロゲネタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 06:02 UTC 版)
「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」の記事における「アンナ・ポルフィロゲネタ」の解説
アンナ・ポルフィロゲネタは、皇帝ロマノス2世と皇后テオファノの一人娘であり、皇帝バシレイオス2世の妹であった。マケドニア朝の皇女であるアンナには、政略結婚がまちうけていた。アウグストゥスの時代までさかのぼっても見てもローマ帝国の皇女が、ましてや皇帝の嫡出子で、外国へ嫁いだ例はそれまで皆無と言ってよかった。 ウラジーミルとの婚姻が、キエフ側と帝国側のどちらの発案になるものであったかは諸説あるが、いずれにせよ当時バシレイオス2世は国内の軍事貴族の反乱に直面し、またブルガリア帝国、イスラーム勢力との戦いを進めていたことから北方を安定させ、援軍を得る必要があったことは確かであり、ウラジーミルおよびキエフ大公国の改宗いわゆる「ルーシの洗礼」は、通婚の大前提であった。婚姻ののち、ウラジーミルは以前の異教徒の妻たちをすべて離婚したといわれるが、この真偽には議論がある。アンナはのちにルーシの正教会から聖人と看做され、夫とともにキエフの什一聖堂に葬られた。 アンナに子がいたという確実な記録はない。これは彼女が不妊であったせいか、さもなければ実家の政策によるものであっただろう。いくつかの聖人伝は、『ルーシ原初年代記』と異なり、ボリスとグレブはアンナの子であったとする。おそらく聖人の母は聖人であるべきだという観念によるものであろう。
※この「アンナ・ポルフィロゲネタ」の解説は、「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」の解説の一部です。
「アンナ・ポルフィロゲネタ」を含む「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」の記事については、「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」の概要を参照ください。
- アンナ・ポルフィロゲネタのページへのリンク