アレンとアーノルドの口論
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「タイコンデロガの攻略」の記事における「アレンとアーノルドの口論」の解説
砦の攻略の当日から、アレンとアーノルドは口論を展開し始めた。お互いが、出来るだけ多くの、指揮官たる信用を得ようとしていた。アーノルドはアレンとその兵士たちに、指揮官としての権威を示すことができなかったこともあり、日々の出来事と行動、それも、アレンに対して批判的かつ軽蔑的な内容のものを、日記につけるようになった。 アレンのほうも、砦の攻略後ただちに、自分の回想録をつけ始めた。何年かのちにこの回想録は出版されたが(関連書籍参照)、この回想録はアーノルドへの言及がことごとく欠けている。アレンは、攻略に関してのいくつかの報告書も執筆しており、ジョン・ブラウンとジェームズ・イーストンが、ニューヨーク、コネチカット、そしてマサチューセッツの多くの議会や委員会にこれを持ち込んだ。これに関しては、研究者によって見方が分かれる。イーストンが、マサチューセッツの委員会に、この2人の手になる報告書を持って行ったが、都合のいいことに、アーノルドが書いた方を途中で紛失し、アレンの報告書が正規のものとされ、この攻略における英雄とされ、人々の間に広まったという説がある。 一方では、イーストンはどうやら、アーノルド自身の指揮に異論を唱えることに、関心があったようだと示唆している。 イーストンとアーノルドが憎み合っていたのは明らかである。1775年の6月10日、アーノルドが艦隊を率いて湖を航行していた時、アレンとイーストンはクラウン・ポイントに戻って作戦会議を開いていた。これはどう見ても軍の儀礼に違反していた。また、アーノルドは、自分の指揮下にある兵が、駐屯隊を仕切っていた時、自らの権限を強く主張した。イーストンが、アーノルドを侮辱したため、アーノルドが決闘で決着をつけようと言った。後にアーノルドはこう伝えた。「イーストンは、剣をつけたうえに、両方のポケットに、それぞれ弾を込めたピストルのケースを入れていた。紳士らしく剣を抜くのを、はねつけたものだから、こっちは思う存分奴を蹴飛ばして、ここから出て行けと言ってやったよ」
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