アレンとアーノルドの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:52 UTC 版)
「タイコンデロガの攻略」の記事における「アレンとアーノルドの離脱」の解説
「カナダ侵攻作戦」、「サラトガ方面作戦」、および「サラトガの戦い」を参照 イーサン・アレンと兵たちは、結局タイコンデロガから離脱した。酒が切れかけたことがあったのに加え、アーノルドが、クラウン・ポイントを拠点にこの付近を取り仕切っていたからだ。 アーノルドは2隻の大型船に設備を取りつける作業を監督していて、結局エンタープライズの方は自分で指揮を執った。こういうことに詳しい船乗りがいなかったからだ。彼の兵たちは、タイコンデロガの兵舎を再建しており、また、2つの砦の残骸から兵器を抜き取って、砲架を取りつけていた。 コネチカットは、タイコンデロガ攻略のため、ベンジャミン・ヒンマン大佐の下、1,000人の兵を送り出していた。そしてニューヨークは、北からイギリスの攻撃の可能性があるため、やはり民兵を育成して、クラウン・ポイントとタイコンデロガを守らせようとしていた。ヒンマンの部隊が6月に到着した時、またしても主導権を巡って一悶着起きた。アーノルドが、ヒンマンの下で任務につくにも関わらず、マサチューセッツの委員会からは、アーノルドへの連絡は何もなかった。ヒンマンは、クラウン・ポイントの指揮もする予定だと断言したが、アーノルドはそれを受け入れなかった。ヒンマンへの訓令には、タイコンデロガの指揮官としか記されていなかったからだ。 ついにマサチューセッツ委員会が代表団を派遣した。6月22日に彼らが着いた時、アーノルドは、ヒンマンの下で任務につくべきと明言した。アーノルドは2日間考えた後、自分の軍を解散し、任務を退いて帰路に着いた。砦の攻略のために、アーノルドは、1000ドル以上もの身銭をはたいていた。 大陸会議は一連の砦の攻略を知って、2つ目の「カナダ住民への手紙」を起草した。これは6月中に、もう一人の同情的なモントリオール商人であるジェームズ・プライスに宛てられた。この手紙とはまた別に、弁の立つ、アメリカ支持者の活動と結び付いたニューヨーク議会からの手紙が、1775年夏にケベックの住民を扇動した。 タイコンデロガの陥落の知らせがイギリスに届いた時、ダートマス卿ジョージ・レゲは「非常に不運である、全くもって非常に不運である」と書き記している。
※この「アレンとアーノルドの離脱」の解説は、「タイコンデロガの攻略」の解説の一部です。
「アレンとアーノルドの離脱」を含む「タイコンデロガの攻略」の記事については、「タイコンデロガの攻略」の概要を参照ください。
- アレンとアーノルドの離脱のページへのリンク