アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡とは? わかりやすく解説

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アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡」の解説

1126年アルフォンソ7世カスティーリャ王即位したアルフォンソ南方への侵攻続けとともにイスラム勢力分裂するように仕向けたこの頃イベリア南部ではムラービト朝対す反乱続発していた。従来のようなキリスト教徒反乱もちろんのことアラブ系ムスリムの反乱多かった支配階級であるベルベル人およびアフリカ系ムスリム対す反発と、厳格な統治への不満が主な原因とされている。アル・アンダルスには、旧タイファ諸国復活を望む王族遺臣多数存在していたため、アルフォンソは彼らを援助し次々とムラービト朝に対して反旗を翻させた。 一時イベリア半島過半制圧したムラービト朝であったが、その全盛期短かった1121年マフディー自称するイブン・トゥーマルトモロッコ反乱起こした彼に付き従う者たちは「ムワッヒド」と称して勢力拡大し、やがてムラービト朝攻撃開始したモロッコイベリア半島反乱抑えきれなくなったムラービト朝は、内部から崩壊していった。1147年には首都マラケシュムワッヒドによって陥落ムラービト朝滅亡しムワッヒド朝アルモハード朝)が興ったムラービト朝崩壊ともなってイベリア南部では複数独立勢力誕生タイファ時代再来かと思われたが、分裂長続きしなかった。北部キリスト教勢力との国力差を理解しているイスラム諸勢力が、ムワッヒド朝臣従申し入れたからである。ムラービト朝転覆までアルフォンソ7世支援頼っていたムスリム勢力も、一部除いて早々にムワッヒド朝支配下入った。こうして、イベリア半島南部ムワッヒド朝版図組み込まれキリスト教勢力対峙することとなった

※この「アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
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