アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡
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1126年、アルフォンソ7世がカスティーリャ王に即位した。アルフォンソは南方への侵攻を続けるとともに、イスラム勢力が分裂するように仕向けた。この頃、イベリア南部ではムラービト朝に対する反乱が続発していた。従来のようなキリスト教徒の反乱はもちろんのこと、アラブ系ムスリムの反乱も多かった。支配階級であるベルベル人およびアフリカ系ムスリムに対する反発と、厳格な統治への不満が主な原因とされている。アル・アンダルスには、旧タイファ諸国の復活を望む王族や遺臣が多数存在していたため、アルフォンソは彼らを援助し、次々とムラービト朝に対して反旗を翻させた。 一時はイベリア半島の過半を制圧したムラービト朝であったが、その全盛期は短かった。1121年、マフディーを自称するイブン・トゥーマルトがモロッコで反乱を起こした。彼に付き従う者たちは「ムワッヒド」と称して勢力を拡大し、やがてムラービト朝へ攻撃を開始した。モロッコとイベリア半島の反乱を抑えきれなくなったムラービト朝は、内部から崩壊していった。1147年には首都マラケシュがムワッヒドによって陥落、ムラービト朝は滅亡し、ムワッヒド朝(アルモハード朝)が興った。 ムラービト朝の崩壊にともなって、イベリア南部では複数の独立勢力が誕生、タイファ時代の再来かと思われたが、分裂は長続きしなかった。北部のキリスト教勢力との国力差を理解しているイスラム諸勢力が、ムワッヒド朝に臣従を申し入れたからである。ムラービト朝の転覆までアルフォンソ7世の支援に頼っていたムスリム勢力も、一部を除いて早々にムワッヒド朝の支配下に入った。こうして、イベリア半島南部はムワッヒド朝の版図に組み込まれ、キリスト教勢力と対峙することとなった。
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