アルフォンソ1世・デステとの結婚
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「ルクレツィア・ボルジア」の記事における「アルフォンソ1世・デステとの結婚」の解説
アルフォンソ・ダラゴーナが死去すると、アレクサンデル6世はルクレツィアの三回目の結婚を画策し、1502年に名門エステ家のフェラーラ公エルコレ1世・デステの嫡子アルフォンソ1世・デステにルクレツィアを嫁入りさせた。アルフォンソ1世との間には多くの子供が生まれ、ルクレツィアはルネサンス期を代表する高雅な公爵夫人として尊敬されるようになっていった。1503年のアレクサンデル6世の死去以降、ボルジア家は没落の一途をたどることになるが、ルクレツィアに寄せられる高い評価は終生変わることがなかった。 アルフォンソ1世もルクレツィアも、互いに対して貞節というわけではなかった。ルクレツィアは義兄にあたるマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと不倫関係になった。フランチェスコ2世の妃はルクレツィアの夫アルフォンソ1世の姉で、教養と知性を謳われたイザベラ・デステである。ルクレツィアはイザベラと友好関係を築こうとしたが、ルクレツィアと自身の夫フランチェスコ2世との不倫関係を知っていたイザベラからは相手にされなかった。ルクレツィアとフランチェスコ2世の関係が感情的なものではなく官能的、肉体的なものだったことが、両者が交わした書簡によって判明している。この不倫関係はフランチェスコ2世が娼婦から梅毒をうつされるまで続いた。 また、ルクレツィアは高名な学者で詩人でもあったピエトロ・ベンボとも関係があったといわれている。1816年にイギリスのロマン派詩人バイロン卿がミラノのアンブロジアーナ図書館を訪れた。バイロンはルクレツィアとベンボの間で交わされた書簡に感銘を受け、ベンボが自宅に飾るためにルクレツィアの髪の房を手に入れようとしていたはずだと主張している。 ルクレツィアは1519年に女児を出産したが、産褥の合併症のために6月24日にフェラーラで死去した。ルクレツィアの遺体はコルプス・ドミニ修道院に埋葬された。
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