アマチュアからカシオペアのメンバーとしてプロになるまで(1970年代まで)
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父親は生業としてのプロミュージシャンにはならなかったが、学生時代には同年代の中村八大とともに米軍キャンプを廻って演奏するほどの本格派なジャズ・ベーシストだった。そのため、幼少の頃から音楽や楽器に親しんだ環境の中に身を置く。高校3年になってから当時まだ黎明期だったフュージョン(クロスオーバー)音楽を好んで聴くようになった中に参加するドラマーのスティーブ・ガッドのテクニカルな演奏に感銘を受けたことがきっかけでドラムを始めるようになる。以降、1970年代後半のフュージョン・ブームが盛り上がっていく中で、ガッドやハービー・メイソン、アメリカのファンク・バンドであるタワー・オブ・パワーとそのドラマー、デヴィッド・ガリバルディから大きな影響を受ける。 1977年、慶應義塾大学に進学し同校のジャズのビッグバンド、慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。大学3年生だった1979年秋、ビッグバンドが渋谷109のイベントライブに出演する際、就職試験で参加できないベーシストの代わりに同大学に在学していた櫻井哲夫に知人経由で代役出演を依頼した。受諾した櫻井は初対面だったリハーサル段階から神保の卓越した演奏に感銘を受けることになる。当時のカシオペアは次期ドラマーを探していたことから、さっそく櫻井は神保の加入を他のメンバーやスタッフに推薦し本人に打診。驚いた神保はそれまでプロ経験もなければ、将来プロになる指向もなかったことで当初は躊躇していたのだが、カシオペア側が総出となって口説き落としたこととコンボスタイルのフュージョンへの憧れと造詣が深かったことからカシオペアの音楽性にやりたいことを見いだして加入するに至った。
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