アトレティコ会長として
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「エンリケ・セレソ」の記事における「アトレティコ会長として」の解説
2003年5月30日、いくつかの制裁と資格剥奪を経て、ヘスス・ヒルはアトレティコ・マドリードの会長を辞任し、後任には1987年から副会長を務めていたエンリケ・セレソが就任した。 当初から、特に2004年5月14日のヘスス・ヒルの死後、ヘスス・ジルの息子であり相続人でもあるCEOのミゲル・ アンヘル・ヒル・マリンとクラブの経営を分担した。 アトレティコ・マドリードが欧州大会への出場権を得たのは、会長に就任してから4年後のことだった。2006-07シーズン、ハビエル・アギーレを監督に招聘。また、クラブの技術秘書で元スペイン代表のトニ・ムニョスのアイデアでセルヒオ・アグエロを獲得し、フェルナンド・トーレスとの2トップは得点を量産した。そのシーズン、チームは選手の怪我に苦しむも、リーグ戦では7位、インタートトカップとUEFAカップの出場機会を得ることができた。 2007年にはエスタディオ・ビセンテ・カルデロンをマドリード市に売却し、チームのキャプテンであるフェルナンド・トーレスをリバプールに売却した。 2007-08シーズン、チームは12年ぶりに再びチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。 2009-10シーズン、2010年5月12日にドイツのハンブルクにあるHSHノルトバンク・ アレーナで行われヨーロッパリーグ決勝戦では、イングランドのフラムにを破り優勝した。クラブがタイトルを獲得したのは1996年以来となった。また、コパ・デル・レイの決勝戦にも出場したが、セビージャで敗れた。ただ、決勝戦のアトレティコサポーターの人数はマドリード外での試合でクラブ史上最多の数を記録した。 ヨーロッパリーグを制覇したアトレティコ・マドリードは、2010年8月27日、モナコのスタッド・ルイ・ドゥで欧州スーパーカップ、インテル・ミラノ(同年チャンピオンズリーグ優勝)と対戦し、ホセ・アントニオ・レジェスとセルヒオ・アグエロのゴールで2-0で下し、同シーズンに2度目の国際タイトルを獲得した。 2010年11月29日、セレソはシーズンの功績を評価され、インテル・ミラノの会長、マッシモ・モラッティと一緒にティエポロ賞を受賞した。 2011年12月にディエゴ・シメオネを監督に招聘すると、すぐにヨーロッパリーグではアスレティック・クルブを破り優勝する。2012-13シーズンにはコパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードを破り優勝する。翌シーズン、クラブはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たし、クラブ史上最高得点となる勝ち点90を獲得した。同年、スーペルコパでもレアル・マドリードと対戦し、合計2-1で勝利している。また、クラブはチャンピオンズリーグ決勝に2度(2013-14、2015/16)進出した。 2017-18シーズン、3億1000万ユーロの支出を経て、クラブは本拠地をエスタディオ・メトロポリターノに移動する。
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