アトレティコと空軍クラブの合併
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「リーガ・エスパニョーラ1939-1940」の記事における「アトレティコと空軍クラブの合併」の解説
前シーズンの低迷でソシオ数の減少・経営難に陥り内戦でスタジアムも損壊したアトレティコは、内戦中に軍内部に設立された「クルブ・アビアシオン・ナシオナル」と接触し合併に向けて協議した。同クラブは空軍の選手を集めて1937年に作られ、アラゴン州選手権1937-1938で優勝。第35回コパ・デル・レイとして開催された「トルネオ・ナシオナル・デ・フトボル1939」にアラゴン州代表として出場。多くのクラブが人的・物的被害を抱える中で、良好な練習グラウンドを持ち軍当局のバックアップを受けて活動していた。 その後マドリードに移転し、地域選手権を経ずにリーガ・エスパニョーラへ直接参入するため合併相手を探した。樹立間もないフランコ政権にとっても、内戦終盤まで陥落しなかった首都マドリードに「解放された新しい祖国の象徴」を作る意向があった。マドリードFCは経営主導権・政治性等で交渉が難航、CDナシオナル・デ・マドリードは地域選手権所属のため合併相手として論外だった。 クラブ・アイデンティティの喪失が懸念される中で、アトレティコの経営陣の多数が前向きになった。以下の点で合意が得られ、1939年10月4日に双方の代表者が合併に調印した。 クラブの歴史・記録にアラゴン州選手権1937-1938の優勝を含めない。 クラブの名称は「アトレティック・アビアシオン・クルブ (Athletic Aviación Club)」になる。 クラブは1903年に設立されたAthletic Club (Sucursal de Madrid)=「アトレティック・クルブ・マドリード支部」と歴史的連続性を持つ。 クラブが継承するのはアトレティック・クルブ・マドリー支部(1903-1907)とアトレティック・クルブ・デ・マドリー(1907-1939)の記録・タイトルのみ。 クラブはアトレティコ・マドリードの赤と白のユニフォーム・青のパンツを現在のまま使用する。 クラブのエンブレムはアトレティコ・マドリードとクルブ・アビアシオン・ナシオナル両者のものを合体させる。 旧クラブのソシオ会員は双方とも新クラブにおいて平等なソシオ権限を持つ。 カスティーリャ・サッカー連盟はこれらの合意事項を承認する。
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