アッヘンバッハの候補取り下げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:17 UTC 版)
「ベアテ・クラルスフェルト」の記事における「アッヘンバッハの候補取り下げ」の解説
1970年3月30日、ドイツ自由民主党 (FDP) のエルネスト・アッヘンバッハ(ドイツ語版)が自由民主党と社会民主党 (SPD) の合意に基づき、欧州共同体委員会のドイツ代表の候補に挙がった。ところが、アッヘンバッハにはナチスで働いた経歴があった。1940年に駐仏ドイツ大使であったオットー・アベッツ(ドイツ語版)の代理を務めていたことから、アドルフ・ヒトラーとピエール・ラヴァルの会談後、ヒトラーとの会談を受け入れるようフィリップ・ペタン元帥を説得するためにラヴァルと共にヴィシーに向かい、10月24日のペタンとヒトラーのモントワール会談にこぎつけたのである。アッヘンバッハはまた、フランスのナチス・プロパガンダ・ラジオを担当していたため、外務省宣伝部の官僚であったキージンガーとも連絡を取っていた。さらに重要な事実は、1943年2月15日にパリでドイツ人将校2人が殺害された事件を受けて、「報復として」1943年3月4日および6日にユダヤ人2千人をアウシュヴィッツに移送する決定に関与したことであった。ベアテはこうした過去を暴露する記事をフランスおよびドイツの新聞に掲載し、両国およびEUの政党の最高決定機関に対しても同様の訴えを起こし、アッヘンバッハの候補取り下げを求めてデモ活動を行った。この結果、1970年5月、ドイツ政府はアッヘンバッハの指名を断念せざるを得なくなった。
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