アッペンツェル市の独立
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「アッペンツェル戦争」の記事における「アッペンツェル市の独立」の解説
講和条約により、アッペンツェル市はライン峡谷やボーデン湖付近のザンクト・ガレン修道院領を獲得した。またザンクト・ガレン市もアッペンツェル市に再接近した。巻き返しを図る修道院に対し、オーストリア公フリードリヒ4世はオーストリア軍を援軍として出した。 1405年6月17日、オーストリア軍はアッペンツェル市の国境地帯であるシュトス峠でアッペンツェル軍に遭遇し、敗走した。これについて、アッペンツェルから女性たちが大挙して夫たちを助けに来たのをオーストリア軍がアッペンツェル軍の第二陣と誤認し撤退したという伝説があるが、これは後年の史料にしか登場しない話であり、史実性はないと考えられている シュトス峠の戦いに勝利したアッペンツェル市は、ザンクト・ガレン市と同盟を結びなおした。この同盟は「海を越える同盟」(スイス語: Bund ob dem See 、海とはボーデン湖のこと)という通称で知られる。これにより、オーストリアのボーデン湖地域における影響力は大きく揺らいだ。1406年までに、同盟軍は60以上の城を落とし、うち30を破壊した。またザンクト・ガレン修道院長までも捕虜としたため、アッペンツェル市はコンスタンツ司教により破門された。 同盟軍が勢力を伸長している間に、オーストリアは体制を立て直した。また1406年9月11日、平民で構成された同盟軍に対抗するべく、周辺の貴族たちにより「聖イェルゲンの盾騎士団」(スイス語: Sankt Jörgenschild )が結成され、1407年に同盟に参加した都市ブレゲンツを包囲した。救援に向かったアッペンツェル軍は騎士団・オーストリア軍に敗北し、同盟は空中分解した。ザンクト・ガレン市とシュヴィーツ州はオーストリア軍の攻撃を避けるために貢納金を支払い、1408年4月4日に神聖ローマ皇帝ループレヒトが同盟を解消させた。 講和条約において、ザンクト・ガレン修道院はアッペンツェル市への宗主権を放棄したが、納税の体制は変わらなかった。1410年までに和平は破られた。 1411年、アッペンツェル市は原初同盟の各邦(ベルンを除く)と防衛同盟を結び、修道院に対する地位を大きく向上させた。ただしこの時点でアッペンツェル市は原初同盟の準構成都市という扱いであり、正式加盟は1513年まで待つことになる。翌1412年、アッペンツェル市は改めて修道院へのあらゆる納税を拒否した。1421年、原初同盟は仲裁に入ってアッペンツェル市に修道院へ税を納めるよう求め、神聖ローマ皇帝ジギスムントはアッペンツェル市に帝国アハト刑を宣告した。これをもアッペンツェル市が無視すると、市は聖務禁止に処されたうえで、トーゲンブルク伯フリードリヒ7世と聖イェルゲンの盾騎士団がアッペンツェルに向け進軍した。1428年12月2日、この連合軍はゴッサウ・ヘリザウ間でアッペンツェル軍を破った。1429年に結ばれた条約で、アッペンツェル市は修道院に「延滞していた」税の支払いを強いられたが、同時に今後こうした税が廃止されることとなった。アッペンツェル市はようやくザンクト・ガレン修道院から名実ともに独立を果たすとともに、原初同盟との結びつきを強めていった。
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