アゼルバイジャン人の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:51 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「アゼルバイジャン人の主張」の解説
一方アゼルバイジャン人の側は、自治州でアルメニア人が圧迫されていた事実はなく、むしろ差別を受けていたのはアゼルバイジャン人の方であると主張する。そもそもアゼルバイジャン自体がソ連の中でも最貧国であり、そのような状況下でも自治州のアルメニア人は本国よりも恵まれた暮らしを送っていた、とするデータが公式統計にも表れている。ヴォリスキーも、1989年に自治州に割り当てられた9600万ルーブルの予算のうち、アゼルバイジャン人地区への割り当ては400万ルーブルのみであったと語っている。また、アゼルバイジャン側は自治州で密かにマリファナが栽培されていたとも主張する。 1988年から翌年までに自治州では136校の中等学校がアルメニア語で授業を行っており、民族間学校の数は13校であったという。また、小さなアルメニア人集落にも文化施設「文化の家(ロシア語版)」が置かれる一方、それよりも大きなアゼルバイジャン人の村には文化の家は置かれなかったという。人口1000人比での機械化車両数も、アゼルバイジャン全体で17.5台であったところ、自治州では26.3台であったとされる。 これに加え、1988年3月にアルメニア人の社会経済学者であるチグラン・ハチャトゥロフ(ロシア語版)らが行った社会調査においても、自治州の医療体制や教育施設の状況は、アゼルバイジャン全体やアルメニア本国のみならず、ソ連全体でみても良好な部分があったとの結果が得られている(表参照)。
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