アゼルバイジャン側の劣勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「アゼルバイジャン側の劣勢」の解説
ゴランボイとカルバジャルでの相次ぐ敗北、そして反露、反イラン政策により両国の親アルメニア化を招いたことにより、アゼルバイジャンでエルチベイは支持を失った。そして、ギャンジャで軍閥を形成していたスラト・フセイノフ(ロシア語版)大佐がロシアに支援されたクーデターを引き起こしたことによりエルチベイは失脚し、後任に元共産党第一書記で新アゼルバイジャン党に所属するヘイダル・アリエフが大統領となった。一時は首相に就任していたフセイノフもアリエフにより逮捕され、以降のアゼルバイジャンではアリエフによる権威主義体制が構築されてゆくこととなる。10月に大統領となったアリエフはロシア、トルコ、欧米とのバランス外交を志向し、エルチベイ政権下で脱退していたCISへも再加盟を果たした。 1994年1月初め、アゼルバイジャン軍とアフガニスタンからのゲリラが、アルメニア側に占領されていたイラン国境のフィズリ県の一部を奪回したが、フィズリ(ロシア語版)の街そのものを制圧するには至らなかった。同月10日にはマルタケルトに進軍し、いくらかのアルメニア軍兵士を捕虜としたりもしたが、アルメニア側が徴集兵、正規陸軍及び自国の内務省軍を出動させたことにより、ほどなくアゼルバイジャン軍は失速した。最終的に5千人のアゼルバイジャン人と数百人のアルメニア人が死亡し、アゼルバイジャン軍は1万5千人の兵員を喪失し撤退した。
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