なぜモーツァルトはプラハに住まなかったのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:30 UTC 版)
「モーツァルトとプラハ」の記事における「なぜモーツァルトはプラハに住まなかったのか?」の解説
『ドン・ジョヴァンニ』の公演の後、モーツァルトはプラハに拠点を置いて他のオペラ作品を書くよう申し入れを受けていた可能性もあったが、彼はウィーンに戻ることを選んだ。メイナード・ソロモンは、モーツァルトがプラハに残らなかった理由は、第一にプラハがウィーンで見つけられるような音楽的才能に欠けていたことが理由だと述べた。加えて、モーツァルトのような職業は貴族階級の支援によって成り立っていたが、プラハは一地域の首都にすぎなかった。18世紀後半のプラハには、作曲家モーツァルトの才能に見合った仕事を提供できるパトロンも、音楽施設も無かった。その上、ダニエル・E・フリーマンはプラハにおけるオペラの上演が、18世紀の間中いかに不安定だったかを指摘している。実際、プラハで上演されていたイタリアのオペラ作品は1789年に公演を中止し、1791年まで再び上演されることはなかった。これは、オペラの興行主であったドメニコ・グアルダソーニの辞任と、同じく興行主であったパスクアレ・ボンディーニの死が原因であった。 モーツァルトがプラハに残らなかったその他の考えられる理由として、フォルクマール・ブラウンベーレンスはニック・シェンクを引用しつつ、ウィーンでモーツァルトが後任を狙っていた宮廷作曲家のポスト(最終的に仕事をもらうが、とても少ない俸給であった)に身をおいていたグルックが1787年の11月に亡くなったからだと唱えている。モーツァルトは職をもらうためのロビー活動をするために地元に帰る必要があった。ダニエル・E・フリーマンは、宮廷での職に任命されるということはモーツァルトがその後ウィーン以外のどの都市にも住むことができないことを意味していたと指摘している。宮廷での職をもらうことによる名声と合わせて、今後宮廷から得られるかもしれないさらなる職と名誉の可能性を考えると、プラハで得られたどんな活動機会もモーツァルトにとっては比較的、魅力のないものになった。
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