なぜ充足理由律が議論の対象となるか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 14:14 UTC 版)
「充足理由律」の記事における「なぜ充足理由律が議論の対象となるか」の解説
充足理由律の内容はごくごく素朴なものでしかない。そのためこうしたことについて、哲学者たちが、なぜわざわざ議論しているのか、その事には説明が必要と思われる。当節ではその点について説明する。この原理が議論されることとなる理由は主に二つある。 ひとつはこの原理を本当に真剣に受け止めた場合、そこから私達のもつ様々な常識と対立するような帰結が容易に導かれる、ということがある。例えばこうしたものの例のひとつとして完全な決定論がある。次のように議論できる。『現在の宇宙の状態がこうなっているのには十分な理由がある → それは少し前の宇宙の状態による → その少し前の宇宙の状態がそのようになっていたことにも十分な理由がある → それはもう少し前の宇宙の状態による → … 』。こうして議論を進めることで、宇宙が全時間にわたって始まりから終わりまで、その全ての細部が完全に決定されていた、ということが充足理由律から帰結する。つまりあなたがこのページを読んでいることは、この宇宙の始まりの時からすでに決まっていたのである。このように充足理由律はそれを受け入れた場合に他の様々な命題がそこから導かれる。そうした時に、その帰結に疑問を感じた場合に、前提である充足理由律について、その妥当性、適用範囲、適用の方法などについて考察を行う、という形がひとつある。 ふたつ目に、本当に理由があるのかどうか分からない、そういう事例について議論する場合に、この原理について考察が行われる。こうした事例の顕著なものとして「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いがある。また「なぜ私は私なのか」といった問いがある。こうした問いは擬似問題として却下されることも多い。しかしもしこうした問いを、問いとして成立している妥当なものと見た場合、そこでは簡単に答えられるような理由を見つけ出すことは非常に難しい。そこから「こうしたことに、実は理由などないのではないか」「理由のない出来事というのが、実はあるのではないか」という考えが生まれる。この「理由のない事」というのはナマの事実と言われる。
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