なぜ存在しない于山島が描かれたのか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)
「于山島」の記事における「なぜ存在しない于山島が描かれたのか」の解説
鬱陵島周辺の島の記述がある最初の記録は、『太宗実録』の太宗十二年(1412年)に流山国島の名で出てくる。その中で、白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った。流山国島は、東西と南北がそれぞれ約24km、周囲が約96kmで豆や麦が採れる」と観察使に証言している。武陵島とは鬱陵島のことで、「流山」は過去に呼ばれていた「于山」の音号から転訛したものと考えられているが、鬱陵島の周囲にその様な島はない。李氏朝鮮では1403年から鬱陵島の空島政策を実施していたため、白加勿らはその罪を逃れるためにこの嘘の島を作ってしまったと考えられる。この島の大きさは、その後の多くの地図に描かれている于山島と似ていることから、于山島は彼の証言を元に描かれていることが推測できる。税や兵役を逃れる者はその後も後を絶たず密かに住み着いているが、于山島は架空の島であるがゆえに鬱陵島のあらゆる方角に描かれている。 鬱陵島の空島政策以後、島の周辺を知る者は限られ、安龍福の事件に絡む竹島一件後の18世紀になってからは、鬱陵島へ朝鮮政府の本格的な調査が定期的に入り、その最大の付属島である竹嶼を于山島として描いた地図が増えてくる。
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