大屋愷あつ(おおやよしあつ 1839-1901)
大屋愷あつは、天保10年(1839)生まれの加賀金沢藩士で、安達幸之助、鹿田文平に学び、幕末には京都・長崎に遊学した。京都では、蘭学とともに絵師・岸岱について絵を学んだ。長崎では、英語、蘭語、数学、天文学、大砲の製作法などを学んだという。
慶応元年(1965)藩校壮猶館の翻訳方となり、翌年には砲台築造方となり、維新後には金沢県の教育係として学校教育の方針を作成するなど、初等教育に力をそそいだ。
金沢でランプやこうもり傘を最初に使い、チョンマゲも最初に切った人としても知られ、石川県における皇国地誌編纂(明治13年 1880)の中心人物となる。
地図関連では、英国駐日公使パークスが日本の西岸に新たな商業港を探すため、軍艦サーペント号に調査・作成させた海図「七尾港図」を、金沢藩が貸与を受けて大屋愷あつが翻訳・模写した。製作した地図として、「射号万国訳図」「射号日本地圖」があるほか、世界の名数について記した「万国名数記」「広益英倭辞典」など多くの著作がある。
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