『槇山風土記』にみる山﨑家の広がり
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「山崎山重」の記事における「『槇山風土記』にみる山﨑家の広がり」の解説
『槇山風土記』所収の山﨑姓系圖は奈路の山﨑家を中心とした系図であり、子孫の地理的広がりをみてとれる。その中で小字に関する記述ではその地に先祖が移住したこと、それに伴い各地に本家や分家が新たに誕生したことを知ることができる。以下に山﨑姓系圖に基づき、各地の小字への移住者や新しく誕生した本家の広がりを記載順に記しておく。 初めに兵庫とその子山重が高瀬村(塩)に来住した。山重は戦功を立て、その後讃岐にて討ち死にした。山﨑家には正延(まさのぶ)名(旧香我美町)の跡目を継ぐことが許された。元禄元年(1688年)に小十郎が分家に譲るまで山﨑家総本家が名本(なもと)職に就いたと思われる。玄蕃丞盛高の孫である喜兵衛は郷士となり、左古(佐古)郷左川村(旧土佐山田町)の所右衛門(出自は不明だが、山重の弟太四郎の子孫の可能性あり)を養子とした。この系統が後の佐古藪山﨑家である。左近衛門が水口に住み、水通の本家となった。玄蕃丞盛高の二男である弥五郎の孫である万助が郷士職を継ぎ、高尾に移住し、高尾の本家となった。介右衛門が桑ノ川に移住した。喜兵衛の子である九郎右衛門が長岡郡甫喜山を開墾し、郷士となった。山重の次男である勘解由左衛門(後述の鴨部山﨑家の系図では三男)の子である徳左衛門が高尾に移住した。その孫である久之丞が万治3年(1660年)に郷士になり、元禄元年(1688年)には山﨑村名本小十郎(塩の山﨑家総本家の子孫と思われる)の養子となり、名本職(庄屋職)を相続した。その弟の新助が元禄4年(1691年)に名本を継いだ。久之丞の子新七が享保元年(1716年)に山﨑土居に移住し、名本職を継いだ。半七が永瀬に移住した。新七の子久之丞(祖父の名を継いだらしい)が明和4年(1767年)に山﨑土居において名本職を継いだ。その兄弟門六が根木屋の名本である與七郎の養子となり、安永2年(1733年)に名本を継いだ。久之丞の子銀蔵が天明5年(1785年)に山﨑土居において名本職を継いだ。その兄弟の要助がススダマに移住した。銀蔵の子の儀蔵が寛政11年(1799年)に山﨑土居において名本を継いだ。
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