『承政院日記』と『啓草本』の于山島
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「于山島」の記事における「『承政院日記』と『啓草本』の于山島」の解説
1882年(高宗19年)4月、朝鮮国王は460年以上も無人島にしていた鬱陵島を本格的に調査する。検察使は李奎遠で、百名ほどで調査報告した。そこには、高宗が李奎遠に鬱陵島へ出発する前の4月7日、高宗は「松竹島、于山島は鬱陵島の傍らに在るが、その相互の距離の遠近はどうなのだ。またどのような物が有るのか分からん。」と下問している。この質問に李奎遠は「于山島は、すなわち鬱陵島のことで、于山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で、相互の距離は三数十里、その産物は檀香と簡竹であると言います。」と答えている。そして高宗は「芋山島あるいは松竹島と称する島は皆『輿地勝覧』が出自である。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島との三つで鬱陵島と呼ばれる島を成している。その様子を良く検察しなさい。」と命令した。 『承政院日記』の原文 承政院日記 高宗19年4月7日上曰, 鬱陵島, 近有他國人物之無常往來, 任自占便之弊矣。 且松竹島·芋山島, 在於鬱陵島之傍, 而其相距遠近, 何如? 亦有何物與否, 未能詳知, 今番爾行, 特爲擇差者, 各別檢察。 且將設邑爲計, 必以圖形與別單, 詳細錄遠[達]也。 奎遠曰, 謹當𨃃蹶奉行矣。 芋山島卽鬱陵島, 而芋山, 古之國都名也。 松竹島, 卽一小島, 而與鬱陵島相距, 爲三數十里, 其所産, 卽檀香與簡竹云矣。 上曰, 或稱芋山島, 或稱松竹島, 皆輿地勝覽所載也, 而又稱松島·竹島, 與芋山島爲三島, 統稱鬱陵島矣。 其形便, 一體檢察, 鬱陵島, 本以三陟營將·越松萬戶, 輪回搜討者, 而擧皆未免疎忽, 只以外面探來, 故致有此弊, 爾則必詳細察得也。 奎遠曰, 謹當深入檢察矣, 或稱松島·竹島, 在於鬱陵島之東, 而此非松竹島以外, 別有松島·竹島也。 李奎遠は4月29日に出帆し鬱陵島を調査した後5月13日に本土へ戻ってくるが、鬱陵島より遥か先には島は全く無く、現地に渡った住民も近くの小島に松竹島や于山島等の名を適当に当てているだけで、于山が欝陵島を指しているのは、耽羅が済州島を指しているようなものだと結論付けている。 このように、当時の朝鮮政府の認識は于山島が鬱陵島であり、再調査した結果も検察使の李奎遠は于山島を鬱陵島の別名だと解している。 『啓草本』の原文 是白乎? 松竹于山等島 僑寓諸人皆 以傍近小島当之 然既無図籍之可拠 又無嚮導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指称欝陵 即如耽羅指称済州 翻訳 松竹于山等の島を、現地へ渡った人たちは皆、近傍の小島をこれに当てている。しかし根拠となる地図はなく、又これを案内する人もいない。晴れた日に高く登り遠くを眺めると、千里をうかがうことができたが、一かけらの石や一つまみの土も無かった。よって、于山を指して欝陵と称するは、耽羅を指して済州と称するようなものだ。
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