『御摂勧進帳』
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安永2年(1773年)の十一月中村座で初演、初代桜田治助らが書いた。初演時の役者は弁慶が三代目市川海老蔵、冨樫が実子五代目市川團十郎、義経が四代目松本幸四郎。現行三幕目の加賀国安宅の関の場において勧進帳を読む場面となる。舞台上は二重で関所とその門前の体をとっており、そこへ義経一行がやってくる。冨樫の同僚、斎藤次祐家はこれを怪しいと止めるが、後からやってきた讃岐坊実ハ武蔵坊弁慶が勧進帳を読み、さらに義経を打擲したことによって冨樫からは通行の許可をもらうことに成功する。警戒を解かない斎藤次は弁慶だけを捕らえ、配下に松の木に繋がせた上で痛めつけるよう命じ、弁慶であることを白状させようと計る。泣くそぶりを見せていた弁慶は、義経一行が安全な場所まで離れられる時間を稼いだ後、自分から本性を現して縄を破り、番卒を次々に倒していく。戦いで引き抜いた敵の首を大きな樽に放り込んで芋洗いのように棒でかき回す場面で幕切れとなる。このことから『御摂勧進帳』は俗に「芋洗い勧進帳」とも呼ばれているが、当時「いも」、「いもがさ」として恐れられていた天然痘に対する疫病除けの意味が込められていたとも解釈されている。長い間上演が絶えていたが、大正年間に「安宅の関」が復活して以来一幕物として散発的に上演されてきた。1968年(昭和43年)1月には国立劇場で利倉幸一捕綴、二代目尾上松緑の弁慶で通し狂言として復活上演された。
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