『張家山漢墓竹簡』中の『二年律令』(前漢初期)
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「中国法制史」の記事における「『張家山漢墓竹簡』中の『二年律令』(前漢初期)」の解説
『張家山漢墓竹簡』は、湖北省の張家山にある前漢時代の墓から出土した1236枚の竹簡であり、その中の526枚に27種の「律」と1種の「令」が残され、表題簡に『二年律令』と記されていた。『二年』とは、前漢の第2代皇帝恵帝の没後、その母の呂后が摂政をしていた時期の2年目である前186年(呂后2年)を指すと考えられる。漢の法ではあるが、漢の法は秦の法に改定を加えたものであり、しかも前漢の創設からわずか16年後のものであるので、多くは秦の法と同じと考えられる。『二年律令』の篇目の中に、『法経』と同じ、「賊律」「盗律」「具律」「捕律」、並びに蕭何が加えた3編のなかの「戸律」「興律」がみえることが注目される。蕭何がそれを集約して漢の法にまとめたという経緯が反映されていると考えられる。 籾山明によると、漢の令は、以下の3つに分類される。 第1は、「令甲」「令乙」「令丙」などの「干支令」と呼ばれる年代ごとに単行指令をまとめたものである。 第2は、使用する官庁ごとに単行指令をまとめたものである。 第3は、「功令」「金布令」「宮衛令」などのように内容ごとにまとめたもの、 の3つである。 このように単行指令をその形式のまま集めて、「○○令」という篇目をつけるシステムが確立したが、これは後述の律令と異なり、体系的な法典の一部を構成するものではない。冨谷至は、これらの雑多な律と令は、国家による体系的な編纂物ではなく、同類の規定を順番にとじ込んだファイルのようなものと解している。史書の記録によると、前漢・後漢を通じて、律令の一篇のなかに篇目にふさわしくない規定が混在したり、刑罰の軽重に差異や矛盾が生じたりして、法の整理と運用に支障があった。また、後漢末期には、律が60篇、令が300余篇など、あわせて2万6272箇条にも達したという。単行指令を増加するに任せて、取捨選択しなかった結果といえる。
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