『崩壊の崩壊』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:38 UTC 版)
アル・ガザーリーはイブン・スィーナーに基づいた哲学説を批判するために『哲学者の崩壊』(Tahāhut al-falāsifa)という書を書いた。アラビア語の題名にある"Tahāhut”は崩壊、崩落などを意味し、アル・ガザーリーによれば哲学者の説は自己矛盾に満ちており、そのことを批判することによって哲学説は自己崩壊することを明らかにすることを目的としていた。この書の影響はスンナ派の東方イスラーム世界では大きく、イブン・スィーナーの影響は大きく後退した。イブン・ルシュドは、アンダルシアにおいても哲学者に対する風当たりの強くなっていく状況を打破するために、『哲学者の崩壊』の全面的な批判的注解を書き下ろし、意趣返しとして『崩壊の崩壊』(Tahāhut al-Tahāhut)と名付けた。 直接的には神学者アル・ガザーリーによる哲学批判を、アリストテレスに基づいて反論すること体裁だが、その真の目的は哲学説の正当性を訴え、哲学と宗教とは調和しうるものだということを当時のムワッヒド朝の思想風潮に投げかけるためだった。そのため、イブン・ルシュドはイスラーム神学において主流のアシュアリー派を否定的に扱っているが、部分的にその考え方も許容している。またこの書は同時に、アル・ガザーリーが批判したイブン・スィーナーに対する批判でもある。アル・ガザーリーの批判はイブン・スィーナーの教説にのみ当てはまり、アリストテレスの立場による真正の哲学には当てはまらないという立場をイブン・ルシュドは採った。故に彼は場合によって、アル・ガザーリーのイブン・スィーナーの誤りの指摘に同意している。 おそらく1180年ごろ書きあげられたが、結局のところアンダルシアにおいても保守的宗教勢力によって哲学を異端視してゆく流れは変わらず、イブン・ルシュドは宮廷から追放され、後に赦免されたが宮廷に戻る途上に死去した。
※この「『崩壊の崩壊』」の解説は、「イブン・ルシュド」の解説の一部です。
「『崩壊の崩壊』」を含む「イブン・ルシュド」の記事については、「イブン・ルシュド」の概要を参照ください。
- 『崩壊の崩壊』のページへのリンク