「飢饉」への言及とは? わかりやすく解説

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「飢饉」への言及(明治40年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:27 UTC 版)

隅田川花火大会」の記事における「「飢饉」への言及(明治40年代)」の解説

明治40年代には、上で引用した清水晴風東京名物百人一首』などのように、「飢饉」との関連性指摘する記述登場する。 しかし、「飢饉死者慰霊花火」というストーリーはまだ一般化していなかった。例えば、1911(明治44)年に出版され若月紫蘭東京年中行事 下巻』には次のように書かれている享保十八年、八代将軍吉宗の時である。前年大飢饉余勢をうけて米価しきりに騰貴し山陽西海四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十万余人に及んだと言うにもかかわらず漸く太平慣れ奢侈の風これより盛んならんとしたる江戸に於てはこの年五月二十八日を以て今猶江戸名物名残の一として数えられつつある、隅田川両国川開初め催されのである。 — 若月紫蘭東京年中行事 下巻』(春陽堂1911年)より抜粋 若月は、飢饉について述べてはいるが、それが川開き花火打ち上げ)のきっかけになったという書き方はしていないそれどころか、川開きは「奢侈の風」の象徴のように描かれており、慰霊悪病退散とは正反対イメージである。 また、若月は、対象地域死者数等を具体的に示して享保の大飢饉説明している。これらの内容は『徳川実紀』と完全に一致しており、そこから引用したものと考えられる若月文章において、「飢饉」は当時の世相説明する要因過ぎず、「飢饉」と「川開き」との間に直接結びつき示されていない。しかし、この『徳川実紀』から引かれ詳細な飢饉状況の描写が、のちに「慰霊目的」説に取り込まれ結果として伝承」の強化完成寄与することとなった

※この「「飢饉」への言及(明治40年代)」の解説は、「隅田川花火大会」の解説の一部です。
「「飢饉」への言及(明治40年代)」を含む「隅田川花火大会」の記事については、「隅田川花火大会」の概要を参照ください。

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