「羽織芸者」の心意気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 01:35 UTC 版)
深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え、大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で、揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達で彼らの好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。 薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また芸名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもある。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多い。 当時、芸者は体を売る遊女と大差なく、羽織をはおることすら憚られるほど社会的地位もすこぶる低かった。そこに、芸は売っても体は売らず、羽織すらはおってみせる、誇り高く気風のいい「巽芸者」たちがあらわれて人気を博して、ひいては「芸者」というものの社会的地位の向上に大きな役割を果たしたということになる。現在私たちが知っている「芸者」というものは、この「巽芸者」に始まるということだ。
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