「感覚」と「感覚器/身体」と「魂(心)」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:09 UTC 版)
「テアイテトス (対話篇)」の記事における「「感覚」と「感覚器/身体」と「魂(心)」」の解説
テオドロスに代わって問答相手に復帰したテアイテトスに対して、ソクラテスは人間が何かを「感覚」する際には、「感覚器」自体が「感覚」するのか、それとも「感覚器」を通して「別の何か」が「感覚」するのか問う。テアイテトスは後者だと答える。 そしてソクラテスとテアイテトスは、「感覚器/身体」はただ個別の感覚情報を取り込むに過ぎず、「魂(心)」こそがそれら感覚情報を統合・抽象・比較したりなど様々に考査するのだということ、そしてまた「魂(心)」は、身体からの情報を用いずに、自身を用いて独自・独立に考査したりもすることなどを指摘していく。 ソクラテスは再度、「魂(心)」が行う考査には、 「感覚器/身体」を通じて、考査する。 ( 「魂(心)」が)自分で自分を通じて、考査する。 という2種類があることを指摘しつつ、「ある(有)」「美・醜」「善・悪」などは、どちらのやり方で考査されているか問う。テアイテトスは、いずれも後者であり、「魂(心)」はそれらを相互の関係において観察したり、「既存・既往・現在するもの」を「将来するもの」と関係付けて、自分自身の内で勘考したりすると答える。 するとソクラテスは、「感覚器/身体」を通じて「魂(心)」に「感覚」が届く機能・能力は、人間・動物全般に生来備わっている機能・能力だが、先のような「ある(有)」とか「為になる」とかに関して勘考する機能・能力は、多くの労苦を重ねた結果、教育を通じてやっと備わるものだと指摘する。テアイテトスも同意する。 そこでソクラテスは、そんな「ある(有)」にすら到達できないような「感覚器/身体を通して受け取られるだけの感覚」が、「真」に到達し得るのか、そして「知識」たり得るのか問う。テアイテトスは否定し、「知識」と「感覚」は異なることが明瞭になったと答える。 こうして「知識(エピステーメー)」とは「感覚(アイステーシス)」であるというテアイテトスの最初の命題は、斥けられた。
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