「夜明け星の文化センター」の設立
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「バーニー・ホワイトベアー」の記事における「「夜明け星の文化センター」の設立」の解説
1971年6月に始まった交渉は、11月まで長引いた。結果、連邦政府は「UIATF」と「全部族インディアン」に対し、「再交渉なしで99年間、基地の跡地80,940㎡を無償貸与する」と同意した。両者間協定は1972年3月29日に承認締結され、「余剰土地」は8月30日に正式譲渡された。バーニーはこの歴史的協定をこう評している。 「これは、『条約』ではありません。白人は、条約に従いません。これは、『法的』かつ『拘束的』な『協定』なのです。」 1973年3月、シアトルの街は、「インディアン文化の中心地」の開発のため、一般収益分配金の50万ドルを供出。経済開発局(EDA)は25万ドルの追加助成金を提供し、「UIATF」ではコルビル連邦、キノールト族、マカー族が主となり、木材売却によって資金を拠出。1975年9月27日までに、総建設費は120万ドルに達した。バーニーらは1万エーカー(約40k㎡)の土地の譲渡を要求したが、結局獲得できた土地は40エーカー(80,940㎡)に過ぎなかった。しかしこの米軍跡地は「ディスカバリー公園」として整備され、1977年5月13日、ローニー・レイエスが設計を助けた建物が完成し、これは「アーバン・インディアン」たちの伝統文化や健康管理、公共医療、生活の総合教育施設である「夜明け星の文化センター」として開設され、現在も運用されている。 「 夜明け星の文化センター」設立後も、バーニーは交渉役として活躍し、「インディアン健康委員会」を設立するなど、「アーバン・インディアン」の権利のために働いた。ピュヤラップ族前部族会議議長のラモーナ・ベネットはこう述べている。 「何十万人もの人々が、報道によってホワイトベアーを知っていました。しかし、カメラが無くなったときこそ、バーニーは必死に働き続けたんです。私たちの小さい夢と、私たちの小さい幻想のすべてを、彼は強い責任と共に、これを現実にしたのです。」
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